2007年03月14日

二見十景・十/清渚

二見十景目次

一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


---------------------------------------------------------------------

kiyo2.jpg
浪越すと二見の松の見えつるは 梢にかかる霞なりけり
西行

立石より今一色村の 邊迄あたりまで磯邊いそべつたいをいう
参宮名所図会より

西は今一色より東は松下に至るまで,二見海岸一帯の総称なり
二見十景(昭和4年発のオリジナル)より

(参宮名所図会が神前岬辺り…,松下を含んでいないのは)

(松下はこのころ…,明治期まで二見ではなく宇治郷だった)

(…からでしょうか?)



二見浦は夫婦岩(立石)から今一色まで約4km
宮川・五十鈴川からのきめの細かい砂が遠浅になった
黒松が茂る弓状に湾曲して広がる海岸です
DSC04987.JPG
(朝熊山より,二見の海岸…,清渚)


それぞれ今一色あたりの高城浜
御塩殿あたりを打越浜(うちこしはま)
夫婦岩近辺を立石浜といいます


それに神前海岸を含めた総称が清渚です


高城浜は明治までの外宮神官の祓い浜…
立石崎の近辺は庶民の禊い浜…
(現在の二見興玉神社,浜参宮ですな)
打越浜は元御塩浜
神前海岸,祓島は内宮の贄海神事…


それぞれ伊勢神宮と関係の深い海岸
もしくは禊の浜となっています
それゆえ,清渚…,と呼ばれるのでしょう
●高城浜のこと
⇒二見十景・五/高城浜
http://hamasanguu.seesaa.net/article/30578557.html

●立石崎のこと
⇒二見十景・一/夫婦岩
http://hamasanguu.seesaa.net/article/25886938.html

●打越浜…,元御塩浜のこと
⇒二見十景・参/御塩殿
http://hamasanguu.seesaa.net/article/27752595.html

●神前海岸…,祓島のこと
⇒二見十景・四/潜島
http://hamasanguu.seesaa.net/article/28638551.html
ちなみに…
興玉神社の氏子衆である江・茶屋地区は
旧神領民奉曳団としてこの 『清渚』 から
名前をもらっています
DSC07177.jpg


-----------------------------------------------------------


また,二見浦の海岸,清渚は
日本で初めて公式海水浴場として認められた海岸です


江地区に「海水浴開典祝文」なる
16通の文章が残されています


いずれも明治15年(1882年)10月19日の日付
となっているそうです

この日をもって二見浦の海岸は
全国初の公式海水浴場として開かれたことになっています


もっとも当時の海水浴という概念は
温泉での湯治という感覚に近かったようで
医療目的でした


夫婦岩の周りには岩石が露出した所が多く
その周りでは波が強く皮膚を摩擦するのに良い
と考えられていたそうです


海の海水に浸かることを冷浴といい
また海水を沸かし,それに入ることを温浴…
ほんまに温泉気分,というわけで


現在二見の歴史を物語る建造物
賓日館入り口門脇に『二見浦浴潮場石表銘』なる石碑があります

DSC07188.JPG

そこには…
皇大神が俗界に降りて来られて,太陽の光が夜明けを告げる。この二見浦の海水に浸かれば,神の恩恵を得た波が打ち寄せ,医療効果・治癒効果がある。我が国の民,伊勢国の民はなんと幸せなことか。
というような
時の内務省衛生局初代局長・長与専済の漢詩が刻んであります
(明治18年4月)

DSC07189.JPG


また,明治17年,宿舎を建設し温浴室をを設けた
という内容の文章が山田原地区に残っているそうです。
今のちょうど賓日館の場所…
賓日館の前身の建物(二見館)がそれだとか


●賓日館⇒http://www.hinjitsukan.com/


賓日館にはこの頃の海水浴の風景が描かれた
錦絵が多数展示されています
(賓日館は明治20年建設)


この後明治39年,現在の旅館街の道が整備され
二見は当時全国屈指のリゾート地
海水浴のメッカとして発展していきます
kiyo.jpg
(旅館街裏の松林)


-----------------------------------------------------------



このような歴史のある清渚
風景として眺めるのもなかなかです


海岸の堤防に座ってボーっとしているのもよし


弓状に今一色へと続く
松林の青い長い海岸が見られます
kiyo4.jpg


伊勢湾内ということもあって
波も比較的穏やか


打ち寄せる波に洗われる貝殻
kiyo6.jpg


きめの細かな清渚特有の砂には
風紋が出来たり…
kiyo5.jpg


案外大きな松が生える松林
kiyo3.jpg


見過ごしがちですが
おもしろい,心和む風景が
清渚では見られます


二見にすむものにとって
一番身近な海…


しかし一番二見らしい
独特な風景が広がっているのが
実はこの一番身近な海
清渚なのではないでしょうか


当たり前すぎて気づかない景色…


まさに十景の最後を飾るにふさわしい
それが二見浦,清渚ではないでしょうか

funetori.jpg

天照大神が倭姫命におしえてて曰く,この神風の伊勢の国は,常世の浪,重浪しきなみせる国なり,傍国かたくに可怜国うましくになり,この国に居たいとおも
日本書紀



========================================


『二見十景・十/清渚』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)

なんも言うことございません
ぜひ 『航空写真』 で清渚の風景をお楽しみくだされ




posted by 浜参宮観察隊 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月18日

二見十景・九/音無山

二見十景目次

一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


-----------------------------------------------------------


音無山

標高約120メートル
尾張平野との境界,木曽三川(揖斐・長良・木曽川)
から始まる伊勢平野が海へと収束する山

いわば伊勢平野の端
ここから地形は志摩半島独特の
リアス式海岸へと変化します

音無山が海へ落ちるその先端を立石岬といい
夫婦岩がまさにその場所にあります

古くは源義経の重鎮
伊勢三郎義盛の館があったとか
(館跡といわれる石垣が残っているらしいんですが)
(すいません,調査不足です)

そのため地元では音無山のことを 『三郎山』 とも呼びます

写真は朝熊山から見た風景

朝熊山より

向かって右側の山が音無山
左は 『七/西行庵』 でお伝えした,五峰山
取り囲むように五十鈴川が流れていますね

(って…、囲んどるよ〜には見えんなぁ…)

-----------------------------------------------------------

さて,そんな音無山
15年ほど前から整備され
立派な遊歩道が出来ています

昔から山内を縦横に道がありましたが
それを整備し,歩きやすくなっています
ここがちょっとした散歩にはもってこいです

さて今回はその中で一番メジャーで
距離があり,音無山を堪能できるコースをご紹介

入り口は二見総合支所から
鳥羽方面へ200メートルほど行った所
山際に赤いアスファルトの
比較的広い道があるのですぐ分かります

遊歩道入り口

これをテクテク登ります
途中には雨後のみ現れる小さな小さな滝も…

小さな滝

200メートルほど進み
国道の二見トンネル上辺りに来ると東屋が!

東屋が!

遊歩道本道は東屋方面へ真っ直ぐ行きますが
ちょっと寄り道…
アスファルト道そのまま右へ
少し登ると大きな石垣が現れます

石垣!

ここ,昭和50年くらいまで
ホテルが建ってました
その跡地です

石垣の上に登ると景色がいいんです
眼前の海はともかく…

日本鋼管のクレーン

この日は津の日本鋼管がよく見えてました
写真をプチッとクリック,拡大してくだされ
真ん中やや左の赤白の構造物がクレーン
真ん中右の街は津の街です

…さて,東屋へ戻りましょう

-----------------------------------------------------------

つり橋

こじゃれたつり橋を渡り…

そうそう,ここら辺の木
すべてサクラです
シーズンになると,そりゃ見事です!

『桜の下には死体が埋まってる!』
by 梶井基次郎…

…あまり関係ありませんな

あまり関係ありませんが
関係ないこともありません

梶井基次郎,少年期の数年を鳥羽で過ごし
旧制宇治山田中学へも通っていました

(一学年終了で大阪へ行っちゃうので,山中卒ではないです)

(かなり無理やりですなぁ…)

(すいませんです…)


…もう,話がそれました


さて,つり橋を渡ると…

345メートル!

頂上まで345メートルだそうで

(3・4・5って…)

(よーできた話で…)

(まぁそんなことはどうでもよく…)

道はつつら折れになりつつ
頂上を目指します

つづら折れ

ちょっとフハフハ息がぁ…

息がぁ…,と言ってる間に広場です!
展望台です!

展望台!

(ここはまだ山頂ではありません)

だーーいぶ前にお届けした
音成神社があります

●だーーいぶ前↓
http://hamasanguu.seesaa.net/article/26093225.html


この展望台は東が開けているので
日の出を拝むのには絶好の場所です

忘れてました

遊歩道入り口にもこんな看板が

こんな看板が…

遥拝所,ここのことです

-----------------------------------------------------------

さて,ここ景色いいんですよ
ちょっと紹介

展望台からの景色

さぁて,細かく刻んでいきましょうか

南方面から
まず鳥羽・安楽島ホテル街

安楽島ホテル街

左端にぽつんと立ってるのは
鳥羽駅前の戸田屋さんです

続いて二見十景四・潜島の神前(こうざき)岬から飛島…
その奥は答志島

DSC06899.JPG

真ん中に見える岩礁は
潜島とは切っても切れぬ祓島
詳しくは,二見十景/四・潜島の巻をご覧あれ〜

●潜島⇒http://hamasanguu.seesaa.net/article/28638551.html


答志島に見える集落は,桃取です

んで,答志島先端から渥美半島伊良湖岬

渥美半島伊良湖岬

山の上が伊良湖ビューホテル
左端の建物ぽいのが伊良湖ガーデンホテル
(なんの説明しとるんじゃ?)


天気がよければこの方向に富士山が見えます

でこれより少し左側に南アルプス八ヶ岳が見えます

んでさらに左側に北アルプス乗鞍岳

んでんで,木曽駒ケ岳

さらに恵那山,御嶽山と

まぁ有名どころがバッチリと

まずい長くなってきた…
先を急ぎましょう

-----------------------------------------------------------

展望台からさらに奥へと行きます
すると目の前にコンクリートの建造物が…

建造物!

これまただーーいぶ前にお届けした
二見ロープウエイの駅舎跡

●だーーいぶ前↓
http://hamasanguu.seesaa.net/article/28370175.html

そうなんです
戦前はこのあたり一帯公園だったんです!
ロープウエイで登ってくる遊園地だったんです


今回の調査(?)その痕跡らしきものを…

いろいろ 発見 いたしました!


でも,このペースだと終らなさそうです!
紹介してるととんでもなく長くなります

とっとと終らせるためにも
次回お届け,というわけで…

(音無山だけで,ネタ引っ張れるなぁ〜)

(それにしても,長いなぁ,今回…)

(しか〜し,まだまだ続きます)

-----------------------------------------------------------

さて,ロープウエイ駅跡横に
とって付けたような東屋が…

とって付けたような東屋

この東屋が立っているところが
音無山の頂上になります


というわけでここから
遊歩道は下りになります
(多少アップダウン繰り返しますが…)


遊歩道の看板,『神社』というのを目指しましょう

目指すは神社ですよ

こんな感じの道を進みます

こんな感じ!

道端の植物でも見ましょうか

まずは,お木曳きや各種神事には欠かせない榊!

榊!

枝の先端,葉の上に
爪状の芽がついているのが特徴です

爪状の芽が特徴

続いて,葉っぱを食べると馬が酔っちゃう
(苦しむ?)
その名も馬酔木と書いてアセビ

アセビ

独特の房状の花の盛りには…
ちと早いですな

お次はマユミ

マユミ

漢字では 『真弓』 と書くそうで
弓はこの木から作ったそうです

今が盛りのツバキ

ツバキ

春ですねぇ
フキノトウ

フキノトウ

とまぁ植物を楽しんでいますと
突然目の前にまたまた
コンクリートの構造物が現れるんですわ

またまたコンクリート構造物!

これ,昭和50年過ぎまで使われてた
上水道タンク

この場所を地元は 『水道山』 なんていいます
これが現役だった頃,二見の水道事情は悪くて…
よく断水してました

さてさて,そんなこんなで
遊歩道も終わりに近づきます

さくら園,なんてのもあったり

さくら園

でも,当然サクラはまだ

梅は咲いたが桜はまだかいな♪

そして,ふもとの神社です
高松稲荷,といって
二見・茶屋地区の商売繁盛のお稲荷さんです

高松稲荷

お稲荷さんらしく
寄進の朱鳥居もいっぱい

鳥居もいっぱい

さて,これであとはすぐそばの国道へ…

二見総合支所のまん前です

遊歩道,約1.5kmの道のりです


========================================


『二見十景・九/音無山』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)
あっ,ぜひ 『航空写真』 がつんと拡大 でお楽しみくだされ











posted by 浜参宮観察隊 at 17:13| Comment(3) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年02月12日

二見十景・八/太江寺

二見十景目次

一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


-----------------------------------------------------------


潮音山 太江寺 真言宗醍醐派
本尊 千手観音菩薩像


太江寺の開創は貞観十六年(874年)といわれ
延喜七年(907年)醍醐天皇の勅願寺と
なってるそうです
勅願寺(ちょくがんじ)とは、時の天皇・上皇の発願により、国家鎮護・皇室繁栄などを祈願して創建された祈願寺のこと(wikipediaより)

平安初期の真言宗僧侶,聖宝の開創といわれますが
行基の開創,との説もあります


-----------------------------------------------------------


江地区の中ほど
江コミュニティーセンター少し南に
山へ登っていく石段があります


その石段の先に太江寺,朱塗りの山門が見えてます

太江寺山門


山門額には太江寺の山号、『潮音山』の文字

山門額!


この山門昨年11月に
享保16年(1731年)以来の大改修を終え
キレイによみがえりました


そのときの様子は
『太江寺仁王門修復法要…』の巻でお伝えしましたです↓
http://hamasanguu.seesaa.net/article/27820811.html


山門落慶法要の一枚…

落慶法要中


山門は通称仁王門
開口の阿形(あぎょう)像と
口を結んだ吽形(うんぎょう)像の
立派な仁王さんが左右におわします


こちらは阿形像

仁王さん

まさに阿吽の呼吸…


さて,そんな真新しい山門を抜けると
目の前には六地蔵

六地蔵


仏教では六道輪廻として
生命は六つの世界のいずれかに生まれ変わる…
とされており
それぞれの世界で人々を
救ってくれるとされる六地蔵…、です
六つの世界、六道(りくどう、ろくどう)は、仏教用語で、この世に生を受けた迷いのある生命は死後、生前の罪により、地獄道(じごくどう)、餓鬼道(がきどう)、畜生道(ちくしょうどう)、修羅道(しゅらどう)、人間道(にんげんどう)、天道(てんどう、天上道、天界道とも)のいずれかに転生し、これら六道で生死を繰り返す(六道輪廻)と言われている。(wikipediaより)

六地蔵の奥には庚申さん

庚申さん


さて、石段は右へと登っていきます
上り詰めるとそこに本堂

本堂です


参詣の方もちらほら…

参詣の方も…


本堂の鐘の上には
『伊勢巡礼第一番札所』御詠歌の額もあります

御詠歌


太江寺、伊勢巡礼の一番札所です


この本堂の中には
ご本尊の千手観音が安置されています
国の重要文化財、鎌倉期の作

ご本尊


太江寺は江戸前期の貞享三年(1686年)
落雷のため全焼しています


(この本尊はそのとき運び出され無事でした)


古い古いお寺だけど
あまり古いものが現存しない太江寺
このときに焼失しているんだとか


さて、その本尊ですが…
重要文化財と国宝の区別ができた
文化財保護法施行(1950年)以前は
国宝扱いだったそうで…


-----------------------------------------------------------


おみくじもいっぱい結ばれて…

おみくじ


絵馬は大日如来
さすが真言宗のお寺、大日如来は重要仏…
と思ってよく見ると


『未申年生まれの御守本尊』とありますな


(まぁ細かな所は…)


(突っ込まない…)


(…と)


本堂東脇には『宝経塔』

宝経塔


この下にのお経が書かれた
たくさんの石や経筒があるそうな
江戸期のものとか


「まぁ、タイムカプセルみたいなもんです」
とは,たまたまいらした御住職のお話


そして、本堂西脇には『興玉社』
興玉神社が明治期に今の夫婦岩の所に創設されるまで
ここが興玉の社でした


(興玉さんは引越ししてるのです)


詳しくは、これも以前お伝えした
『太江寺・興玉社』の巻で…
http://hamasanguu.seesaa.net/article/27823248.html


-----------------------------------------------------------


最近太江寺はペットのお寺として有名です
裏手にはそれぞれのかわいがっていた
ペット君達のお墓があります


墓標にはそれぞれのペットの名前が彫られていて
ちょっと興味深いです、はい


さて、そんな太江寺の入り口
コミュニティーセンターから道を南へ下った
その曲がり角には『十王堂』の看板が…

ぜひ中を覗いてください

十王堂


そこには死後の世界で
極楽へ行くか地獄へ落ちるかを裁く
十人の裁判官(親分は閻魔大王)の像が
色彩も鮮やかに残っています


よく見ると死者の生前の姿を映す鏡や
魂の善悪を重さで計る天秤まであります
江戸初期の作とされてます


========================================


『二見十景・八/太江寺』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)


posted by 浜参宮観察隊 at 22:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月23日

二見十景・七/西行庵

二見十景目次

一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


---------------------------------------------------------------------


西行は平安後期から鎌倉初期にかけての僧侶で
奥州,四国,吉野,熊野,高野,四国など各地を行脚し
自然を詠んだ歌をたくさん残しています


西行は俗名を佐藤義清(のりきよ)という名で
鳥羽上皇の北面の武士として活躍していました


北面の武士とは上皇の警護担当の武士集団です


●北面の武士(wikipedia より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%A3%AB


北面の武士になる者は武芸達者はもちろん
眉目秀麗で詩歌管弦に堪能であることが
求められたようです


実際出家した後も西行は女性にもてた
という話もあります


また男色文化の当時,場合によっては
上皇の枕席のお供をすることもあったという,
位は低いが華やかな職務だったといいます


そのような華やかな職務についていた
佐藤義清こと西行は23歳のとき突然出家します


その理由については諸説ありますが
いまだ謎とされています


出家直後の歌として…

世の中を捨てて 捨てえぬ心地して 都はなれぬ我身なりけり


心から心にものを思わせて 身を苦しむる我身なりけり


世をのがれて伊勢のかたへまかりけるに,鈴鹿山にて
鈴鹿山 うき世をよそにふり捨てて いかになりゆくわが身なりけり


その出家への想いには
複雑なものがあった,のでしょうか…


---------------------------------------------------------------------


二見旅館街,朝日館裏に西行の句碑があります

西行の句碑

伊勢に二見と云う所にて
浪越すと二見の松の見えつるは 梢にかかる霞なりけり

西行自身何度も伊勢の地には
足を運んでいたようですが
晩年期の治承四年(1180年)から
文治二年(1186年)までの7年間を
二見で過ごしています


西行が伊勢の地に来た理由として挙げられるのは…


平清盛が孫の安徳天皇を伴って強行した
清盛晩年の大失策,福原(現在の神戸市)遷都や
台頭する平氏打倒の謀略として有名な
京都東山・鹿ケ谷事件などの
後の源平合戦へと続く不穏な時代の空気から逃れるため…


…だといわれています


西行自身による『千載和歌集』には
伊勢の国の二見浦の山寺に侍りけに…
とあり,また鴨長明はその著書『伊勢記』に
西行法師すみ侍ける安養山といふところ…
と記しています


---------------------------------------------------------------------


二見の西側に横たわる
水平にスパッと切り取っちゃったような
平らな山があります

五峰山


その名を五峰山といいます


五峰…,といいつつ
どちらかというと
四ヶ所の切れ込みがある山…
といった様相


二見の国道越しによく見えます
(この山の南側は『光の街』として開発真っ最中です)


そしてその五峰山の西の端の小さな丘
そこを豆石山といい,別名安養山といっています

あんにょやま
(五峰山西端,安養山;鹿海側から)


その安養山には安養寺跡というものがあり
長らくその所在が不明でしたが
平成4年の発掘調査で寺院跡が確認され
西行の草庵跡の可能性がある遺物が
多数発見されています


西行はこの安養寺に庵を結んで
内宮へ参詣通いをしていたらしく
神宮神官とも深い交流があったようです

何事のおわしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる

伊勢神宮を詣でた西行が詠んだ歌とされている歌です

伊勢にまかりたりけるに,三津と申す所にて,海辺暮と云う事を神主どもよみけるに
過ぐる春 しほのみつより船出して 波の花をやさきに立つらん


基本的に句会など開かなかった西行が
二見では上の歌のように
『神官ども』 との交流をずいぶん楽しんだようです


また,神官荒木田満義は西行の弟子となり
名も蓮阿と変え,出家しています


その蓮阿が二見での西行の暮らしぶりについて
自然石を硯に用いたり,歌の文台として扇や花かごを用いる…
というようなことを書き残しています


西行はこの安養寺の庵を拠点に
菩提山神宮寺にも庵を持ち
行き来をしていたといいます


菩提山神宮寺…
今の五十鈴公園,陸上競技場あたりにあった
大きな寺院です


今でもその寺院跡奥にあたる
ちょうど今の県営陸上競技場奥
伊勢道路のトンネル入り口辺りに
西行谷という地名が残っています


この伊勢での7年間の生活の後
西行は彼の生涯最後の大旅へ出立します


行き先は奥州平泉(現在の岩手県平泉町)


その頃焼け落ちた
東大寺大仏殿再建に必要な金(きん)を求めるため
中尊寺金色堂で有名な砂金の産地,平泉にいた
奥州藤原氏三代目当主,藤原秀衡(ひでひら)に会うためでした


平泉は出家して間もない頃旅立った場所でもあり
西行自身の平泉再訪は実に40年ぶりでした


奥州藤原氏との旧交を温めたと思われます


---------------------------------------------------------------------


この西行の平泉訪問について
少し興味深い,とある説が…


五峰山の隣山,音無山は
源義経の重要家来,伊勢三郎義盛が
生まれ住んだ所といわれています


(実際,音無山を地元では『三郎山』とも呼んでいます)


安養寺にいた西行とは面識があったと考えられてます


西行が奥州へ旅立つのは1186年
義経の活躍により壇ノ浦で平家が惨敗するのが前年の1185年
この一年というタイムラグが興味をそそります


壇ノ浦の合戦後義経は兄頼朝から追われる身となります


(平家滅亡の功績を称える朝廷の義経への待遇を巡って…)


(頼朝が激怒したため,といいます)


(義経はむしろ兄に褒めてもらえると思って受けた朝廷側の栄誉ある待遇ですが…)


追われの身となった義経は
奥州藤原氏,藤原秀衡を頼って平泉へと逃げます


義経を守るよう秀衡に遺言された
息子泰衡(やすひら)ですが
しかし,頼朝の圧力に屈服し義経を攻めます


そして,義経は平泉で自害します
壇ノ浦の合戦から4年後の1189年のことです


その義経は,平泉へ逃げる時
内宮へ寄り黄金の剣を奉納,参詣しています


西行が平泉へ旅たつのはその直後です


そして途中鎌倉へ寄り,頼朝とも面会しています


兄頼朝の誤解を解きたかったといわれる義経は
内宮へ来たとき西行に伊勢三郎義盛を通じて会い
頼朝や平泉へ何らかの取り計らいを頼んだのではないかと…


伊勢三郎義盛を間にして西行と義経の関係が興味深いです


---------------------------------------------------------------------


さて…


現在,安養寺跡ならびに西行庵跡は
残念ながら宅地開発で完全に崩されています

今はないよぅ…


昭和3年,二見十景を著した松本正純氏はその序で

二見で過す日々が重なるごとに「世の中の移り変わりの中の名所旧跡がだんだん忘れられていくのが寂しい…」

との思いで 『二見十景』 を
作ることを決心したと書いています


それから約80年…


二見十景の一つは失われてしました


安養寺跡は山とともに
その痕跡すら崩されてしまいました

崩されたよぅ


地元として,大変残念なことです


と同時にそれは安養寺跡に価値を見出させなかった
地元としての大いなる反省材料かも知れません


加えて開発はそこの風景を変えてしまいます


小さいですが一つの山が寺院跡ととも失われ
あたりの風景はがらりと変わってしまいました

開発だよぅ


ほんの十数年前までこのあたりは
小さな細い道だけがついた一面の葦原でした


五十鈴の川の流れは,室町後期の大地震で変わったとはいえ
おそらく西行が見たであろう風景をついこの間まで残していました


何百年と変わらなかった風景は
十数年前に始まった数年の工事で
あっというまにその風景を変えてしまいました


壊すことはものすごく簡単です
でも,その風景を戻すことは


…間違いなく不可能です


(安養寺発掘調査の詳細,成果は…)


(旧二見町の教育委員会のロッカーに…)


(いれたままになっているんだって…)


(なんとかしようよ…)


西行は花鳥風月の歌人ではない。こうした何を信じていいか分からぬ時代(注:源平争覇,平氏滅亡の時代)にも,なお変わらぬものがあるかも知れない。もしあるとしたら自然であれ,人情であれ,それを見届けたいと思ったことであろう。反対にないならないで,またそれを見届けたいと思ったに違いない。もしそうでなかったら,西行は西行でないのである。
井上靖著/西行・山家集より

開発された山に背を向け振り返ると
そこにはかろうじて昔と変わらぬ風景がありました

変わらぬ風景…


そこから見えるのは…


西行が見たであろう水面きらめく五十鈴川であり
その奥,意外に近くに見える神路山,鼓ヶ岳であり
その裾には西行が通った内宮があります


ここに立つとふと考えます


井上靖の言うように,それでもやはり西行は
この開発を見届けてくれたのだろうか…


大いに考えさせられます…


六の浜荻はかろうじて残っています
今回七の西行庵は失われました


残りの十景がこれからも末永く
その形態を保ってくれることを願います


---------------------------------------------------------------------


さて,西行は平泉への旅から戻った
建久元年(1190年)今の大阪府河南町にある
広川寺で亡くなります

願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ

入寂は旧暦二月十六日,行年七十三歳

自身が作った歌のとおり旧暦の如月十六日…
つまり十五夜望月(満月)の翌日だったというわけです
(作歌年時不明だけど,辞世の句ではないそうです)

またこの日は,釈尊涅槃の日でもあります


---------------------------------------------------------------------


−参考−

●西行/白洲正子・新潮文庫
●西行・山河集/井上靖・学研M文庫
●二見町史
●digital 西行庵 http://www.saigyo.org/
●平安京探偵団 http://homepage1.nifty.com/heiankyo/index.html


========================================


『二見十景・七/西行庵』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)





posted by 浜参宮観察隊 at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年01月17日

二見十景・六/浜荻

二見十景目次

一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


---------------------------------------------------------------------


”難波の葦は伊勢の浜荻”


「浜荻」って風流なひびきです


この浜荻
三津地区では小字名として使われておりました
今の 『ふたみシルバーケア豊寿園』 あたりですね

浜荻ですよ!


伊勢の浜荻は三津が発祥!
三津の名勝地として昔から
知られているのです

有名ですよ!


万葉集にこんな歌があります

神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅宿やすらむ 荒き浜辺に
〜碁檀越の妻〜
今頃私の夫は
神風の伊勢の浜萩を折り伏せて
旅の仮寝をしていることであろうか
荒々しい浜辺で


万葉の頃
碁壇越(ごのだんおち)という者が伊勢国に赴いたとき
都の妻が夫の旅の苦労を思い詠んだ歌です


神風が相当きつかったんでしょうか
浜荻は葉が片側に寄って傾いてるので
別名を片葉の葦「あし」といいます


ややこしいけど「あし」の別名は「よし」
「あし」は「悪し」に通ずるため
「善し」の別名をもうけたそうです


この浜荻 昔は葦原と言われるほど
広範囲に生えていたようですが
今は田んぼそばの水路で見かけます


もうないのでは…との噂もちらほらですが

絶滅はしておりません!


---------------------------------------------------------------------


浜荻は月とセットでもよく詠まれています

月とセット!


こんなのが・・・
あたら夜を 伊勢の浜荻 をりしきて 妹恋しらに 見つる月かな
〜藤原基俊/千載集〜
もったいないような素敵な月夜なのに、
私は伊勢の海辺で旅寝です。
葦を折り敷いて寝床に作り、
都の妻を恋しがりながら、
こうして月を眺めているんだなあ


さっきの万葉集の逆パターンですね
やっぱり浜荻は折ってふとんがわり

団子ほしくね?


ほかにも・・・
いく夜かは 月を哀と ながめきて 浪にをりしく 伊勢のはまをぎ
〜越前 新古今集〜

旅寝する 伊勢の浜荻 露ながら むすぶまくらに やどる月影
〜鎌倉右大臣 続古今集〜


浜荻ともうします


そうそう,泉鏡花の 『歌行灯』 の中にも
そうさ,いかに伊勢の浜荻だって,按摩の箱屋というのはなかろう
という一節があります


この部分の脚注に
「莬玖玻集」の「草の名も所によりて変わるなり,難波の蘆は伊勢の浜荻」をふまえ,所がかわれば名や品物の変わることのたとえ
とあります (ちくま日本文学全集・泉鏡花)


そう、冒頭の
”難波の葦は伊勢の浜荻”は
物の名前が地方によって様々に異なる
という意味のことわざなのだそうです


その浜荻を誇りにしている三津区では
老人会を「浜荻クラブ」
お木曳の木遣り梃子舞台を「浜荻団」と
名付けておるのですね

三津の浜荻団だよ


『参宮名所図絵』にも三津村の様子が
描かれています

名所図会にも!

見にくいのでアップっ

これほどみなの心に留まった浜荻ですから
三津の名勝としてぜひ保存していきたいですね



========================================


『二見十景・六/浜荻』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)





posted by 浜参宮観察隊 at 00:57| Comment(3) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月31日

二見十景・五/高城浜

二見十景目次

一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


---------------------------------------------------------------------


小学校の給食でごはんのとき
(月、木の週2日はごはんの日)
海苔のつく日がありました


そういった日には放送で
「今日の給食の海苔は
今一色でとれた海苔です」
と案内がはいるのです

今一色の海苔

(写真は今一色、高城浜の海苔の養殖場)


なので朧げながら海苔は
二見の誇る産物として
インプットされました

今一色の海苔,です


---------------------------------------------------------------------


でも高城浜は今一色地区


二見小出身のわたくしには
海苔の採れる今一色は
ちとばかし異国でもありました


(二見町には二見小学校と今一色小学校の二つがあります)


貝掘りにはよく連れってもらいました
やっぱ漁業の町 今一色

貝掘りの名所,高城浜


ここは清渚二見浦の一番西にあたる浜です
右を見れば神前方面…

神前方面


左を向けば大湊方面

大湊方面


高城浜は五十鈴川を挟んで大湊に面します


---------------------------------------------------------------------


明治四年の神宮改革前まで毎年9月13日、
豊受大神宮(外宮)の祢宜さんがここで
祓いを修め、潮水を浴び身を清めたんだそうで
→「浜出(はまで)」


浜参宮の歴史あり、ですな
なのでこの高城浜を土地の人は長官浜とも
呼んでいたそうですよ

長官浜とも…


貝殻拾いも楽しいですが
流木も結構たくさん

流木も流れてきます


浜の堤防横ではこうやってせっせ
海苔づくりが行われています

海苔ですよ,海苔!


少し離れて今一色の氏神さん
高城神社があります

高城神社


お木曳のときは今一色人は
高城法被を着とります


高城神社は明治42年
二見神社に合祀されましたが
昭和29年分離復帰し今の場所に
建てられました

高城神社ですぃ

もいっちょ高城神社ですぃ


昔は現在の今一色小学校にあったようです


除夜の年越しは地元人の参拝で賑わうと
文献(昭和39年発行)に書いてありますが
今もそうなのかな


今夜大晦日 見に行ってみますか?

今宵異大晦日は…?


========================================


『二見十景・五/高城浜』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)





posted by 浜参宮観察隊 at 14:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年12月01日

二見十景・四/潜島

二見十景目次
一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


---------------------------------------------------------------------


二見町の北東端が伊勢湾に突き出た所
神前(こうざき)岬に『潜島(くぐりしま)』
というところがあります


あっ、といっても島ではないのですよ


地質的には『海食洞門』といいます


手っ取り早く言えば、岩が波でアーチ状に削られ
ちょうど門のようになっているのです


まぁ『潜れる島』ということなんでしょうか?


潜島へ行くには
五十鈴川派川(江地区側の五十鈴川)河口から
堤防を延々と歩くことになります


(車でもいけないことはないけど・・・)


(あまりオススメはできません…)


延々と歩くと堤防が山にぶつかります
そこに潜島の説明看板があります


というわけで
この看板を読んでください

はい、読んでください


潜島の説明が書いてありますね


というわけで
余計なことは書かずに
今回はこの辺で…
さよーならー





……





いえ、きちんとレポートしますです、はい


さて、堤防も切れたことですし
海岸を歩きましょうか

海岸を歩きますよ


ここにはこんな境界表示が…

境界表示が…


『建設海岸基標 No15-2 終点』
何が終点なんだろ?


…確かにここから東側(鳥羽方面)はリアス海岸になります
(正確には夫婦岩のところが伊勢平野とリアスの境界線)
ここで砂浜終わり!というサインでしょうかね?


まぁいいや
先へ進みましょう


さすが(?)は神前海岸、岩がゴロンゴロンしてます
多分、山から崩れてきたんだろうな

ゴロンゴロン


またデカいんですわ、これが

でかいわ


ここの沖は昔から
『伊勢の神前、国崎の鎧、波切大王なけりゃよい』
と歌われたほど鳥羽・国崎沖、志摩・波切沖とともに
海の難所だったそうです


今でも実際この沖の潮の流れは速く
伊勢湾の最深点(深さ約60メートル)
はこの神前岬沖です


---------------------------------------------------------------------


やがて海岸も尽きて岩場になります
えっちらおっちら軽く岩登り


(あっなので決してハイヒールで行ってはいけません)


(…ハイヒールって、誰が行くんじゃっ)


ふぅぅ、と一息つくとそこに鳥居があります

鳥居じゃ


潜島は、池の浦(二見と鳥羽の境の入り江)にある内宮摂社
粟皇子(あわみこ)神社の遥拝所だったとか
そのためだからでしょうか


鳥居を潜り、もう少し!
と思ったら、まだ岩場でした…

まだ岩場!


この先、ほんまに岩場伝いやん…


ふへぇ〜、という言葉が出るころ
やっとアーチが…


『潜島』です

はい潜島です


きちんとアーチ状になってるでしょ?

アーチでしょ?


本来、ここには注連縄が張ってあるんですが
…どうも切れて無くなったみたいですね
わずかに左のほうに切れ端が…


あぁそうそう
この写真を撮りに行った日
これでも大潮の干潮時なんです


海が荒れてねぇ…
エラい波でした


帰りも、もう…

帰りも、もう…


本来なら潜島を潜れるはずなんですが…


無理っ!
帰ります


---------------------------------------------------


あっ注意です!


潜島、ほんとに大潮の干潮時しか無理そうです


潜島の注連縄替え
毎年旧暦の六月一日にやるそうですね


旧暦は一日は新月、十五日が満月


なので大潮の時に注連縄替えをしているわけですね


新月か満月の日を狙って行って下さい


いや、ほんま大潮の干潮以外には潜島
行けないっすよ


---------------------------------------------------------


それともう一つ…


潜島の沖に大きな岩礁があります

祓島


この岩礁はチェックです!


単なる岩礁ではなく、祓島という名前がついてます


明治になるまで毎年六月十五日(旧暦の)になると
内宮の禰宜さんがお供を引き連れ
馬に乗り内宮を出発、鹿海で舟に乗り換え
五十鈴川を三津の湊に立ち寄って江の河口に至り
この岩の前まで行ってたそうです


そして海水に浸かり身を清め干潮を待ち
潮が引いたらこの祓島に渡り
三種類の海草を取ってたんだそうです


そしてその海草を内宮へ持って帰る…


これを贄海神事といって鎌倉時代には
すでに行われていたそうです


なので祓島、別名を『御饌(みけ)島』というそうです


御饌とは神様への供物のことです


========================================


『二見十景・四/潜島』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)

posted by 浜参宮観察隊 at 00:48| Comment(3) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年11月18日

二見十景・参/御塩殿

二見十景目次
一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


---------------------------------------------------------------------



二見で御塩殿神社といえば
吉居のおじいちゃん


神宮にお供えする塩を
作り続けて68年


海水をから煮詰めた
塩を焼き固める重要なお仕事は
吉居さんの腕にかかっているのです


それはいつも
3月と10月


たまたま晴れた日に神社を
のぞいてみたらその最終日

shio6.jpg


吉居さんに焼き固めた三角形の
御塩を見せていただきました!

shio9.jpg


感激です

shio10.jpg


塩焼きって陶芸と似てるんだそうで
確かに窯から出す瞬間は
長年培われてきた勘が決め手です


吉居さんの場合
塩の方から声をかけてくれるんだとか
「もう出してもいいよ」って

shio11.jpg


うーん
さすが
達観しております

笑顔の吉居さん


境内のお掃除も吉居さんの役目です

お掃除吉居さん


こちら海側からの御塩殿神社一帯
松林の奥にひっそりと佇んでいます

海からの御塩殿


そこから海沿いに走り
今一色の港前も通り
たどり着いたのが
入浜式塩田です
タテ38メートル ヨコ31メートル
まわりは溝が巡らされてます

塩田です


内宮の神域を流れる五十鈴川
伊勢湾まであと2キロの地点
このあたりの海水まじりの水が
樋門を通って塩田にはいるのです

五十鈴川河口


樋門を…,ちょっと拡大
おぉ神宮司庁の文字が

拡大


夏の土用 この浜で濃い塩水を
とる作業が行われます
“採かん作業”です

@浜おこし(地盤のすきおこし)
A満潮時に潮を入れる
B塩田全体が冠水
B浜をひろげる(砂をむらなく撒く)
C浜をかえす(太陽に乾かされた砂に塩がつく)
D浜をよせる(乾いた砂は沼井に運ばれる)
E潮をおそう(沼井にかん水と海水を注ぐ)
F採かん(沼井の下穴に砂の塩分を溶かしたかん水が溜まる)


93007_1533239232.jpg

93007_384696939.jpg

(2005年7月)


塩田,昔は今の御塩殿神社の
西隣の海岸にあったそうですが


年々の風波侵食で塩田を移さざるを得なくなり
入り江で風波の侵食の恐れがない
今の場所になったとか


寛政4年(1751年)の旧記帳に
『北浜(注:御塩浜)だんだん波にて欠け申し候』
って書いてあるそうで


そしてここで作業をすませた
かん水は神社の御塩汲入所に
運ばれます


これが御塩汲入所(向かって右)
となりが御塩焼所(向かって左)

御塩汲入所
と御塩焼所


天地根元造りという
かやぶきの三角屋根
太古を感じます

御塩汲入所

御塩焼所


8月に汲入所からかん水を運んで
平釜でコトコト煮詰め
塩の結晶ができると木鍬ですくい
苦汁を切ります


そして荒塩は俵に詰められ
御塩焼き堅めつまり吉居さんの作業を
待つのです


三角錐の素焼きの型に
荒塩を詰め堅塩に焼き固めます


焼き固めるのは苦汁が溶け出さず
長く貯蔵できるからなんだそうで


御塩は年間400個ほど


神宮でこの堅塩を砕き
すべてのお祭りに使うのです


**********


そうそう それと
こんな手作り看板が町内のあちこちに

御塩道


神様へお供えする「御塩」を運んだ道


御塩殿から外宮まで続く約8キロを
昭和12年までは唐櫃担ぎ列を組み
歩いて運んでいたそうな


**********


そして余談
遠い昔 小学校5年生のとき
夏休みキャンプがありました

そん時にですね 夜のお楽しみに
夏ですし 肝試しがあったんです

それが御塩殿神社の中で!

闇の中 突然飛び出すおばけ役を
先生たち・・・

今もやってるかしらね

大人になって気付いけど
それって神宮所官社じゃん!

これ神宮さんが聞いたらどうなんだろ???



========================================


『二見十景・参/御塩殿』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)



posted by 浜参宮観察隊 at 19:00| Comment(6) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月28日

二見十景・弐/五十鈴川

二見十景目次
一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


---------------------------------------------------------------------


内宮奥,高麗広の山に源流を持ち、内宮神域を抜け鹿海で二本に別れる五十鈴川


その二本に分かれた五十鈴川に囲まれる二見町


(除く松下地区…)


(松下地区が二見町になったのは,実は明治以降です)


(それまでは宇治郷松下村,だったそうですよ)


まあ地図で確認しましょかぁ
(地名のフォローも入れてあります。クリック&拡大してくだされ)

こんなかんじですぃ


伊勢市街方面から鳥羽へと行くとき
二見に入るときにわたる汐合大橋と
シーパラダイスを越えて渡る橋…


と二回橋を渡りますよね?ね?ね?


二本に分かれた五十鈴川です


(ちなみに 『汐合』 を『しおあい』と読まずに…)


『しわえ』 と読んだあなた…)


(二見人度数100%です!)


(うれしいでしょ?)


(えっ?まぁ……、はい……)


---------------------------------------------------------------------


シーパラダイス近くの五十鈴川は
正式には五十鈴川 『派川』 とおまけ扱いですが…

ha.jpg
(写真はサンアリーナ近く,三津地区の引舟橋)


大昔はこっちが本来の五十鈴川…


(というか、汐合大橋側に川は流れていなかったんですわ)


(…どうでもいいけど、シーパラダイスという名前が長くめんどくさい!)


(というわけで本来の地区名、江地区とします)


その本来の五十鈴川が取り持つ
内宮と二見の深い関係


倭姫命が天照大神をお祀るする場所を求めて
伊勢の地にこられ五十鈴川を遡りました
(もちろん江地区側から)


河口付近の浜で人に案内を請うたところ
この人、口が利けなかったらしく
黙って塩を差し出すばかり


以来神宮の塩は二見で作るようになったとか


日が暮れて倭姫命ご一行は
川の中に浮かぶ島(!)で
一晩休むため船をつけました


そのためそのあたりを御津(みつ;今の三津)
と呼ぶようになったとか


そうそうだから、二見の旧神領・内宮領は
全てこの江側に流れる五十鈴川沿いの地区です。


ときに川の中に浮かぶ島ですが…


サンアリーナから二見へ入るとき渡る
引舟橋の付近におまんじゅうのような
小さな山(森?)がいくつか見えます

山…?森…?


これすべて昔は五十鈴川の中に浮かんでいた島、だったとか


一番分かりやすいのはサンアリーナの公園にある
展望台をかねた小山ですな

サンアリーナ公園展望台PG


これらはぜんぶ元は島だったとか


サンアリーナのやつ
今では公園の池のため
ほんま島みたいになって見える…


またこのころ五十鈴川の川幅は
数百メートルもあったそうで
(川幅300メートル近く、という話しもあり)


今の伊勢二見鳥羽ラインのあたりまで
五十鈴川の中だったみたいですね


また戦国時代村…、じゃなかった
安土桃山文化村の下あたりは葦原の入り江で
舟をつけるのに好都合な場所だったそうな


葦原は…、伊勢の濱荻として世に有名ですわ
(その六でやりまする)


三津地区は当時港があり
(津は港の意味ですねぇ)
宇治から来る道の渡し舟があったところ


引舟橋という名に少し当時の面影が…

引舟橋…


---------------------------------------------------------------------


そんな五十鈴川が今のように二本の流れになったのは…


およそ500年前の明応7年(1498年)…


8月に発生した大地震で
単なる入り江だった今一色側に大津波が押し寄せて
一気に五十鈴川の流れを今のように変えてしまったとか


(大湊で6〜10メートルの津波だった、との資料あり)


時代は足利氏の勢力が弱体化し
群雄割拠の戦国時代へと突入するころですな


明応7年(1498年)8月25日の地震
マグニチュード8級。紀伊から房総にかけての海岸と甲斐で震動大きかったが,震害はそれほどでもない。津波が紀伊から房総の海岸を襲い、伊勢大湊で家屋流失1千戸、溺死5千、伊勢・志摩で溺死1万,静岡県志太郎で流死2万6千など。南海トラフ沿いの巨大地震とみられる。日本最大級の地震とされる。

■災害の歴史
http://web.kyoto-inet.or.jp/org/bousai_s/html/history/nenpyo1.html
より


ちなみにこの地震のため、浜名湖が海とつながったんですと…


---------------------------------------------------------------------


さてさて,そんな五十鈴川のおすすめ風景を少し…


●まずは江側の河口から
江の河口
(写真1:江の河口を海に向かって…)

江の漁港
(写真2:上の場所で振り向くと…,江の漁港です)


●お次は今一色側の河口風景です
今一色漁港1

今一色漁港2
(写真3,4:今一色の漁港です)

大湊方面
(写真5:川向こうは大湊。遠くに堀坂山や飯南・飯高の山々が…)

汐合方面…
(写真6:このあたりは川幅も広く水面も穏やか。後ろは朝熊山。管理人いちおしの風景)


●引舟橋あたりは西の空が広がります。今の季節,夕焼けがきれいです
舫う小船…
(写真7)

夕日…
(写真8)

夕日とすすき…
(写真9)

※写真7,8,9は朝熊のケアハウス裏で…


========================================


『二見十景・弐/五十鈴川』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)

posted by 浜参宮観察隊 at 14:04| Comment(3) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月21日

二見十景・一/夫婦岩

二見十景目次
一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚


●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html


---------------------------------------------------------------------


初富士の 鳥居ともなる 夫婦岩
            山口誓子


今では
縁結びに夫婦円満のシンボル夫婦岩
実は、元々は…


鳥居なんです


そもそも鳥居って「聖」と「俗」の結界


太陽信仰日の大神,太陽と
沖合に鎮む興玉神石
(猿田彦大神縁りと言われる)
を拝むための鳥居、なんです


興玉さんができるまでは
夫婦岩の前に大きな台があり
そこにお供え物をおいて
お参りしていたんだとか


興玉さんの創建は明治43年。江にあった太江寺の興玉神と茶屋の氏神を合祀して出来た神社で、意外に新しいんです


「夫婦岩」の呼び名も
明治44年発行の文献が初見で
それまでは「立石さん」と呼んでいたとか


(今でも地元には「立石さん」と呼んでる年輩の方がたくさんいます)


そんな夫婦岩…


季節によってさまざまな表情を見せてくれます


---------------------------------------------------------------------




:::::::::::::::::::: 春から夏 ::::::::::::::::::::


「夫婦岩の間からの日の出」はこの時期です!

夫婦岩からの日の出
(05年5月8日)


春は修学旅行生で賑わいます
日の出の時間に早起きし
境内でひたすら日の出を待ちます


日の出見れたら一生の思い出ですな


カメラマンは前日から場所取り…

群がるカメラマン!



〜6月の夏至〜


夫婦岩は特に
夏至の太陽を迎える太陽の門…,だとか


毎年、梅雨時期にかすかな望みをかけて
見物人がたくさんきます


禊も行われます

みそぎしてます
(06年の夏至祭)


夏至の前後1週間は岩間から日の出が望める
ベストシーズン!


ラッキーなら下の写真の方向
遥か彼方に富士山の影が……

富士山がぁぁぁ?あれっ?


しかし富士山、日の出に夫婦岩のスリーショットなんて……



何年かに1回らしいですぞ



〜7月15日〜


7月15日は興玉神社の例祭
境内には提灯や行灯

興玉神社例祭


そうそ、あのしめなわ曳きは
この例祭の宵宮(14日)に行われます


---------------------------------------------------------------------


夏は空と海のコントラストがきれい!
時間を忘れてぼ〜っと眺めているだけでも気持ちいいんです!

夏は空と海のコントラスト


満ち潮と引き潮の時もまた雰囲気、違いますよ〜
比べてみて下さいな

引き潮〜

満ち潮〜




:::::::::::::::::::: 秋 ::::::::::::::::::::


夕焼け空に夫婦岩
(05年10月)


秋といえば夕焼け空


東に日の出を迎える夫婦岩
当然,夕焼け空に映える夫婦岩には…


なりませんな


でも,昼間の海風は気持ちいいです




:::::::::::::::::::: 晩秋・冬 ::::::::::::::::::::


冬場は海が荒れます!!
波を(いや潮を…)かぶります!!
つまり潮を…,浴びます!!!


本来の浜参宮(禊)が体験できます!!!!


荒れまっせ〜



こちらは珍しい雪の夫婦岩(06年2月)

雪の夫婦岩


若狭湾からの風が鈴鹿おろしとなって
直接吹き付ける冬の二見浦


冬型気圧配置が強まると
雪が降るときがあります


この辺りは雪ってあまり降らないんですが…


ちなみに…


去年(05年12月)の大注連縄張神事は雪がちらつき…

寒いんだよぅ


(はい,半分死ぬかと思いました…)


そうそう、冬至前後には
満月が岩の間から昇るのが見られます


(写真は・・・また来月ということで…)


夫婦岩は春夏秋冬
いつ来てもらっても
心洗われる風景を映し出してくれます


二見十景の一番に上げられるが
名実ともにふさわしい気がします


朝焼けと飛行機雲
(05年5月)


---------------------------------------------------------------------



冬場は空気が澄んでいて
特に朝方、富士山がよく見られます


(富士山以外にも八ヶ岳,恵那山,御嶽山,伊吹山,鈴鹿の山々がはっきりと…)


というわけで


誓子が詠んだように
元旦初日前には
岩の間から富士山を見ることが出来ます


新年早々に富士山
見れたら有り難い〜ですよね
幸先いいですよね〜


どうですか?来年は是非見てみませんか?
 

なお…


元旦の初日は岩の間から昇りません


---------------------------------------------------------------------


『二見十景・一/夫婦岩』 の場所…
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(…になりますわ)


(十景は地図つき!)

(でもいろんな都合で,とりあえず十景だけにしておきます)

(あとは様子をみながら…)
posted by 浜参宮観察隊 at 17:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見十景> 二見十景 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする