2016年11月04日

音無山のおとなき由来

風がごーごー吹いて、海のそばの音無山は
わりとウルサいですが、なぜか音のない山
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標高119.8メートル

これは、倭姫命ご遷幸の際、ご接待役の
佐見津日女(さみつひめ)が口利けず、
倭姫命のご質問に何の音沙汰もなかったことから、
佐見津日女の住家近くのこの山を「音無山」と呼ぶようになった、と
※東屋近くの看板より

倭姫命でしたか!二千年前!!

条件さえ揃えば、富士山が見えます
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火力発電所の奥の方に

ぐるり遊歩道あります
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今はつわぶきロードです
posted by 浜参宮観察隊 at 23:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見の話題> 二見温故知新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月14日

今一色のお地蔵さん

高城保育園から海岸へ出る道沿いの
雑木林にひっそりと佇む地蔵さんたち。

大きなお地蔵さんが一体と
奥に小さなお地蔵さんが数体。

image-7af79.jpeg

五十鈴川河口の今一色沖は
潮の流れが複雑でよく水難事故が起きたそうです。

その水難事故で命を落とした人たちを供養するため
昔はここにお地蔵さんを立てたんだ。

このお地蔵さんを見てたとき声をかけてくれた
通りがかりのおじいさんが教えてくれました。

今一色の墓地からかなり離れたこの場所に
お地蔵さんがなぜ居並ぶのかを思うと
近年までこの付近が海岸線だったから
このお地蔵さんたちはみんな海を向いて立っている、
そういうことなのかもしれません。

posted by 浜参宮観察隊 at 13:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見の話題> 二見温故知新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月07日

一色砲台と大湊砲台の現状

一色砲台
s_P7010038.JPG
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.71
三重県教育委員会提供


二見に砲台が設置された同時期に
やはり津藩とその支藩である久居藩により
現在の伊勢市一色町と伊勢市大湊町にも砲台が設置されます。

場所はピンのところになります。


ここは今まで見てきた砲台跡では唯一看板が立てられいました。

s_P6220017.JPG

看板には
台場
 幕末のアメリカ使節ペリーの来航から神宮を護衛するために、一色村向崎へ砲台を設置するむねの命令が奉行所よりあり、一色では時の年寄五名の連名でこれを認めた。
 砲台の設営は一八六一年(文久一年)より時の久居藩は担当して始め、二見町三津の不聞山(きかずやま)から水路にて土砂を運搬して盛土した。
 実際には、通商条約調印、開国の運びとなり砲台を据え付けるところまでには至らなかった。
 一色では今、ここを「台場」と言っている。
平成十七年五月建立
とあります。

「三重の近世城郭」 によると
大きさは約40m×50m、跡地としては全壊。
看板に書かれているとおり二見町三津の引船橋
(安土桃山時代村から県営アリーナへ行く途中の五十鈴川に架かる橋)
下流右岸朝熊側の不聞山(きかずやま)から水路で土砂を運びました。
明治45年から大正10年にいたる耕地整理までは現存していて
山場として子供たちの遊び場だったそうです。
耕地整理後は高さ7、80pの高台上の土地として整備され
野菜や果樹が植えられています。

実際現地は田んぼと住宅の中にぽつんと存在する果樹園の様相です。

s_P6220013.JPG

s_P6220016.JPG

ちなみに上は砲台跡を北東(位置図で言えば右上)から眺めた写真ですが、
位置図の通り、一部斜めに切り込まれた土地であることが確認できます。

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大湊砲台
s_P7010037.JPG
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.70
三重県教育委員会提供


地図上ではこの場所になります。
赤いピンの場所です。


こちらの砲台跡は完全消滅していて
三重の近世城郭でも資料等が見当たらず
加えて伊勢湾台風後の護岸工事のため消滅し
場所の確定が行われなかったとあります。

しかし三重の近世城郭の調査では当時
2名の古老(明治31年生と明治26年生)
の記憶という話があり、
大湊の海岸の最北に近い海浜上に
砲台跡があったことは確かであり、
その跡は高さ3間(5.4m)の円錐台で、
斜面はよじ登るのが困難なほど急だったとあります。

実際現在訪れてみると、本当に何もありません。

s_P6220001.JPG


---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
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2016年08月13日

二見陣屋の現状

二見陣屋
s_P7010044.JPG
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.72
三重県教育委員会提供

二見陣屋です。
かつての場所は光の街への道が参宮線をまたぐところ
から見える茶色い建物、二見町上水道加圧場と
その北側の住宅地あたりになります。

s_P6220024.JPG

s_P6220019 - コピー.JPG
(建物後ろの跨線橋が光の街への道です)

s_P6220020 - コピー.JPG

地図ではこちら。


陣屋とは藩の役所のことです。

高城、鮫川の砲台を文久3年(1863年)に築いた
津藩11代藩主藤堂高猷(たかゆき)は同時に
砲台を守る衛兵の家中・御供・人足880人の陣屋も築きました。

それがこの二見陣屋で
現在は残るものは何もなく、北側から水道加圧場入る道が
かつては陣屋への門へ至る道です。

そのためか、このあたりの字名を「御門」といいます。

当時は北と南に幅約3mの堀を巡らし、四方を約6mの土塁で囲み、
内側には東西約85m、南北54mの長方形の広さがありました。

その様子は上記図のほかにも二見町全部の地割を載せた
「二見町土地宝典」でも確認できます。

s_P6190008.JPG

地割を上記図と比較しながら見れば
なんとなく堀の形や陣屋跡が浮かび上がります。

建物は明治維新の廃藩とともに取り払われました。
記録によると明治40年ごろまで周囲の土塀が残っていたそうですが
その頃敷設された参宮線の工事で大部分が壊され
残っていた部分も昭和7年頃にはすっかりなくなったそうです。

今回ちょっと上水道加圧場の周りを歩いてみました。
ちょうど上水道加圧場の東側の藪の中に直径十数cmの
古い材木が何本か打ち捨てられてました。

s_P6220022.JPG

s_P6220021.JPG

よく見ればほぞ穴のようなものが確認できる
明らかに柱に使われたと思われる材木、
ひょっとして陣屋に使われてた木材、かもしれませんね。



---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
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2016年08月04日

神前砲台の現状

神前砲台
s_P7010045.JPG
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.73
三重県教育委員会提供

潜島がある神前岬からさらに鳥羽方面へ
回り込んだところにある小さな岬の上にあります。
場所はここになります。



砲台跡の大きさは約18m×20m。
二見町の地割図、二見町土地宝典の該当部を見てみると
はっきりと砲台の跡が見て取れます。
(六六四五の場所)

s_P6190018.JPG

この下へと延びる細長い部分も
『南の後方に幅3.2mの道路が南方の浜に続くのも注意を引く』
と三重の近世城郭 p.73に記されているとおりです。

同様に「三重の近世城郭」に記されているところによると
北東側の前面の土塁の幅が7m近く(中略)高さ1.2m程の土壇状ともなり、南隅の土塁は、幅2m〜3m、高さ1.5m程ある。坑内中軸線から北西面が床面で20p〜30p高く、南隅には約2m四方の凹みがある。施設の配置に関連ある遺構であろうか。保存状態は良好。


---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
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2016年07月25日

鮫川(茶屋)砲台の現状

鮫川砲台として記録されてる茶屋の砲台跡です。
今の賓日館がまさにこの砲台跡です。

場所はここ。


賓日館は廃棄された砲台跡を明治19年(1886年)に
神苑会が買収、建設されました。
ちなみに鮫川砲台が出来るのが
前回ご紹介の今一色・高城砲台と同じ
江戸幕末の文久3年(1863年)です。

まず、鮫川というのは
茶屋区内を流れる小さな川です。

s_P7060004.JPG

写真は賓日館裏の鮫川です。
かなりのドブ川で臭いもひどく流れの大部分が暗渠になってます。
川として気軽に見られるのはこの賓日館裏あたりだけです。

JRのトンネル入り口あたりの山裾を源流に
二見総合支所の西脇を通り支所北側で東へ流れを変え
サークルK夫婦岩店の駐車場下から
今の国道から賓日館へ入る看板のある道の下から
賓日館の南側を東進、…ここまでずっと暗渠です。
そして興玉神社前まるはまの東側、
興玉神社脇の水門から海へ出ます。

私の祖母は鮫川で洗濯をした、といいますが。

その鮫川が通る地域、
消防署脇から伊勢社会福祉協議会二見支所へ入る道、
(堅田神社へ抜ける道なので堅田道とも言いますが)
その道から東側の茶屋一帯は字(あざ)鮫川という地名です。
(合併前の旧表記で二見町大字江字鮫川です)

さて、賓日館へ入るのに数十cmですが若干の登りになってます。

s_P6230031.JPG

道路から賓日館の間へ入るのに
少し登りになってます。

ちょっと視線を左へ向けると…

s_P6230032.JPG

垣が二重になってます。
奥の垣が賓日館庭園部の垣ですが
やはり少し高い場所にあります。

前記の賓日館裏の鮫川の写真でもよく見ると
賓日館は石垣の上に乗ってます。
賓日館の建物の西端を見てみても…

s_P7060002.JPG

やはり石垣の上、です。

この段差こそが砲台跡の証拠です。
いわば砲台の土塁跡です。

この石垣は砲台当時のものなのか
賓日館が建設されるときに整えられた石垣なのかは
すいません、不明です。

もともと賓日館が建っている場所そのものが
この近辺で周りより少し小高くなっていて
賓日館の門はこの小高い場所の「頂上」に当たります。
賓日館駐車場から入口へ歩いてくるとき注意してみると
道路が少し登っています。

左の写真は賓日館正面の道路から海岸を見ています。
そして右はここから数十メートル東へ行ったところ
興玉神社駐車場前の道路から海岸を見ています。

s_P6230030.JPG s_P6230033.JPG

水平線の位置を基準に
左の賓日館前のほうが堤防が低い、
ということが分かっていただけますか?

堤防の高さは一定だし道路は堤防とまったく平行ですから
賓日館前の堤防が低く見えるということは
それだけ賓日館前の土地が高いということです。

明治初年の頃、茶屋の街は今のバス停、
二見学習センターのところから
北は今の松風軒まで、
東は今の伊勢市社会福祉協議会二見支所まででした。

そこから東、興玉神社までは松林で建物はなく
(興玉神社そのものも現在の場所へ出てきたのが明治30年です)
現在の賓日館は小高くなった砂浜だったと推察できます。
まさに砲台を建設するには小高くてもってこいの場所、だったんでしょう。

前回ご紹介の今一色・高城砲台を
二見浦海岸の西端の守りとするならば
鮫川砲台は東端の守り。

そんな感じでしょうか。

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【その3】高城(今一色)砲台の現状
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【その5】神前砲台の現状
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2016年07月18日

高城(今一色)砲台の現状

高城(今一色)砲台
P7010042.JPG
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.72
三重県教育委員会提供


高城砲台の跡地は高城神社前の丘陵地です。
地図の赤いピンのところになります。



P6170109.JPG

写真では右建物奥の丘陵地です。
手前後が高城神社になります。

高城神社側から藪の中へ入ってみました。

藪を入って行くと
思った以上にきれいな土塁跡が目の前に現れます。
高さにしておよそ2mほど。
P6170105_S.jpg

それが上段の土塁ということになります。
上段の土塁が目の前に現れるまでの若干の登りが
確かに下段の土塁だとも見受けられます。

今一色砲台図によると北西部に
出入り口状の凹みがみられますが
こちらは藪が深くて未確認です。

土塁はかつて石垣となっていて東北部に石垣の石材が
数個あるとのことですがこれも未確認です。

土塁の上部、砲台面はきれいな平面でかなり広いです。
今一色砲台図によれば規模としておよそ90m四方。
P6170100_S.jpg

全面に竹が多い茂ってますが
規模は大きなことはわかります。

土塁の下は赤土で覆われていて
三津から船で運ばれた赤土と伝えられてるそうです。

明治22年の『二見郷七ヵ村明細図』には
北辺約10m、南辺約80m、南北約75mの
六角形に近い平面が記されているそうですが
この北辺で当時は海に接していたということで
完成当時は海に面した砲台だったわけです。

完成したのは文久三年(1863年)5月ごろで
大政奉還(1867年)の4年前です。

---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
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2016年07月11日

二見の砲台跡【その2】

幕末期、二見に築かれた砲台について
少し時代背景を記しておこうと思います。

ざっと年表風に。

1853年(嘉永6年)7月、ペリー艦隊の浦賀入港、江戸幕府に開国を要求。

1853年(嘉永6年)8月、ロシア使節、プチャーチンがペリーに遅れること1ヵ月半後、長崎来航。

1854年(嘉永7年)3月、日米和親条約締結、江戸幕府の鎖国体制の終焉。

1855年(安政2年)1月、江戸幕府下田取締掛の勝麟太郎(後の勝海舟)が山田奉行所とともに二見浦を調査。外敵からの神宮警護の策をめぐらす。

1856年(安政3年)4月、津藩第11代藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)が二見浦を実地検分、茶屋、神前、今一色の3カ所に砲台を築き始める。(安政2年とも)

1858年(安政5年)7月、アメリカ側の領事裁判権が認められ、日本側に関税自主権がないの不平等条約といわれる日米修好通商条約締結。この年、幕府より山田奉行所を通じ津藩に対して神宮警護を厳にするよう通達がある。

1863年(文久3年)5月、茶屋、神前、今一色の砲台が完成。同7月、一色の砲台が完成。同6月、江戸期最後の外宮・内宮のお木曳が挙行される。

1867年(慶応3年)10月、大政奉還。江戸幕府の終焉。


江戸幕府が外敵の来襲から伊勢神宮を守るべく
二見に砲台を築くわけですが
幕府側の最初の調査が勝海舟によって
行われていたというのが驚きです。


---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台
【その4】鮫川(茶屋)砲台
【その5】神前砲台
【その6】二見陣屋
【その7】一色砲台と大湊砲台
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2016年06月20日

二見の砲台跡【その1】

砲台跡、です。
砲台、大砲を据え付けたところです。

江戸幕末の1853年、
ペリーの浦賀来航という大事件を機に
防衛のための砲台が全国に作られました。

おそらく一番有名なのは東京お台場の
品川砲台だと思います。

津の藤堂藩も津市内・塔世橋あたりと
岩田川河口、現在の青果市場の地に二つの砲台を築きます。

そして伊勢神宮警護のための砲台を
二見町内に3つ、大湊に1つ、一色町に1つの計5カ所
そして統括する役所として二見陣屋を築きます。
(一色の砲台は津藩の支藩、久居藩の設置です)

二見町内に関して言えば3つの砲台はそれぞれ
今一色の高城砲台、茶屋の鮫川砲台、そして神前砲台の3つです。

現在の場所で言えば高城砲台は高城神社向かいの雑木林
s_P6170109.JPG

写真まっすぐ奥が高城保育園、右へ行けば海岸
左へ行けば今一色小学校、手前が高城神社です。

そして鮫川砲台は現在の賓日館…、
砲台廃止後の跡地に建てられたのが賓日館です。

神前砲台は神前岬の東側、
船ででも行かなきゃ行けません。

ちなみに統括役所の二見陣屋は
光の街へ入る参宮線の高架下に
茶色い建物、上水道加圧ポンプ場がありますが、ここです。
s_P3240060.JPG

ちょうど陣屋跡地を参宮線が二分していて
南側跡地に現在この上水道加圧ポンプ場
が建っています。

というわけで数回に分けて
これら砲台跡と陣屋のことを
紹介していこうと思います。

---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台
【その4】鮫川(茶屋)砲台
【その5】神前砲台
【その6】二見陣屋
【その7】一色砲台と大湊砲台
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