わりとウルサいですが、なぜか音のない山

標高119.8メートル
これは、倭姫命ご遷幸の際、ご接待役の
佐見津日女(さみつひめ)が口利けず、
倭姫命のご質問に何の音沙汰もなかったことから、
佐見津日女の住家近くのこの山を「音無山」と呼ぶようになった、と
※東屋近くの看板より
倭姫命でしたか!二千年前!!
条件さえ揃えば、富士山が見えます

火力発電所の奥の方に
ぐるり遊歩道あります

今はつわぶきロードです
一色砲台
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.71
三重県教育委員会提供
台場とあります。
幕末のアメリカ使節ペリーの来航から神宮を護衛するために、一色村向崎へ砲台を設置するむねの命令が奉行所よりあり、一色では時の年寄五名の連名でこれを認めた。
砲台の設営は一八六一年(文久一年)より時の久居藩は担当して始め、二見町三津の不聞山(きかずやま)から水路にて土砂を運搬して盛土した。
実際には、通商条約調印、開国の運びとなり砲台を据え付けるところまでには至らなかった。
一色では今、ここを「台場」と言っている。
平成十七年五月建立
大湊砲台
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.70
三重県教育委員会提供
二見陣屋
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.72
三重県教育委員会提供
神前砲台
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.73
三重県教育委員会提供
北東側の前面の土塁の幅が7m近く(中略)高さ1.2m程の土壇状ともなり、南隅の土塁は、幅2m〜3m、高さ1.5m程ある。坑内中軸線から北西面が床面で20p〜30p高く、南隅には約2m四方の凹みがある。施設の配置に関連ある遺構であろうか。保存状態は良好。
高城(今一色)砲台
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.72
三重県教育委員会提供
1853年(嘉永6年)7月、ペリー艦隊の浦賀入港、江戸幕府に開国を要求。
1853年(嘉永6年)8月、ロシア使節、プチャーチンがペリーに遅れること1ヵ月半後、長崎来航。
1854年(嘉永7年)3月、日米和親条約締結、江戸幕府の鎖国体制の終焉。
1855年(安政2年)1月、江戸幕府下田取締掛の勝麟太郎(後の勝海舟)が山田奉行所とともに二見浦を調査。外敵からの神宮警護の策をめぐらす。
1856年(安政3年)4月、津藩第11代藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)が二見浦を実地検分、茶屋、神前、今一色の3カ所に砲台を築き始める。(安政2年とも)
1858年(安政5年)7月、アメリカ側の領事裁判権が認められ、日本側に関税自主権がないの不平等条約といわれる日米修好通商条約締結。この年、幕府より山田奉行所を通じ津藩に対して神宮警護を厳にするよう通達がある。
1863年(文久3年)5月、茶屋、神前、今一色の砲台が完成。同7月、一色の砲台が完成。同6月、江戸期最後の外宮・内宮のお木曳が挙行される。
1867年(慶応3年)10月、大政奉還。江戸幕府の終焉。
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