2016年09月07日

【その7】一色砲台と大湊砲台の現状

一色砲台
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三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.71
三重県教育委員会提供


二見に砲台が設置された同時期に
やはり津藩とその支藩である久居藩により
現在の伊勢市一色町と伊勢市大湊町にも砲台が設置されます。

場所はピンのところになります。


ここは今まで見てきた砲台跡では唯一看板が立てられいました。

s_P6220017.JPG

看板には
台場
 幕末のアメリカ使節ペリーの来航から神宮を護衛するために、一色村向崎へ砲台を設置するむねの命令が奉行所よりあり、一色では時の年寄五名の連名でこれを認めた。
 砲台の設営は一八六一年(文久一年)より時の久居藩は担当して始め、二見町三津の不聞山(きかずやま)から水路にて土砂を運搬して盛土した。
 実際には、通商条約調印、開国の運びとなり砲台を据え付けるところまでには至らなかった。
 一色では今、ここを「台場」と言っている。
平成十七年五月建立
とあります。

「三重の近世城郭」 によると
大きさは約40m×50m、跡地としては全壊。
看板に書かれているとおり二見町三津の引船橋
(安土桃山時代村から県営アリーナへ行く途中の五十鈴川に架かる橋)
下流右岸朝熊側の不聞山(きかずやま)から水路で土砂を運びました。
明治45年から大正10年にいたる耕地整理までは現存していて
山場として子供たちの遊び場だったそうです。
耕地整理後は高さ7、80pの高台上の土地として整備され
野菜や果樹が植えられています。

実際現地は田んぼと住宅の中にぽつんと存在する果樹園の様相です。

s_P6220013.JPG

s_P6220016.JPG

ちなみに上は砲台跡を北東(位置図で言えば右上)から眺めた写真ですが、
位置図の通り、一部斜めに切り込まれた土地であることが確認できます。

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大湊砲台
s_P7010037.JPG
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.70
三重県教育委員会提供


地図上ではこの場所になります。
赤いピンの場所です。


こちらの砲台跡は完全消滅していて
三重の近世城郭でも資料等が見当たらず
加えて伊勢湾台風後の護岸工事のため消滅し
場所の確定が行われなかったとあります。

しかし三重の近世城郭の調査では当時
2名の古老(明治31年生と明治26年生)
の記憶という話があり、
大湊の海岸の最北に近い海浜上に
砲台跡があったことは確かであり、
その跡は高さ3間(5.4m)の円錐台で、
斜面はよじ登るのが困難なほど急だったとあります。

実際現在訪れてみると、本当に何もありません。

s_P6220001.JPG


---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
posted by 浜参宮観察隊 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見の話題> 二見温故知新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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