2016年08月13日

【その6】二見陣屋の現状

二見陣屋
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三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.72
三重県教育委員会提供

二見陣屋です。
かつての場所は光の街への道が参宮線をまたぐところ
から見える茶色い建物、二見町上水道加圧場と
その北側の住宅地あたりになります。

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(建物後ろの跨線橋が光の街への道です)

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地図ではこちら。


陣屋とは藩の役所のことです。

高城、鮫川の砲台を文久3年(1863年)に築いた
津藩11代藩主藤堂高猷(たかゆき)は同時に
砲台を守る衛兵の家中・御供・人足880人の陣屋も築きました。

それがこの二見陣屋で
現在は残るものは何もなく、北側から水道加圧場入る道が
かつては陣屋への門へ至る道です。

そのためか、このあたりの字名を「御門」といいます。

当時は北と南に幅約3mの堀を巡らし、四方を約6mの土塁で囲み、
内側には東西約85m、南北54mの長方形の広さがありました。

その様子は上記図のほかにも二見町全部の地割を載せた
「二見町土地宝典」でも確認できます。

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地割を上記図と比較しながら見れば
なんとなく堀の形や陣屋跡が浮かび上がります。

建物は明治維新の廃藩とともに取り払われました。
記録によると明治40年ごろまで周囲の土塀が残っていたそうですが
その頃敷設された参宮線の工事で大部分が壊され
残っていた部分も昭和7年頃にはすっかりなくなったそうです。

今回ちょっと上水道加圧場の周りを歩いてみました。
ちょうど上水道加圧場の東側の藪の中に直径十数cmの
古い材木が何本か打ち捨てられてました。

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よく見ればほぞ穴のようなものが確認できる
明らかに柱に使われたと思われる材木、
ひょっとして陣屋に使われてた木材、かもしれませんね。



---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
posted by 浜参宮観察隊 at 00:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見の話題> 二見温故知新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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