二見陣屋
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.72
三重県教育委員会提供
二見陣屋です。
かつての場所は光の街への道が参宮線をまたぐところ
から見える茶色い建物、二見町上水道加圧場と
その北側の住宅地あたりになります。
(建物後ろの跨線橋が光の街への道です)
地図ではこちら。
陣屋とは藩の役所のことです。
高城、鮫川の砲台を文久3年(1863年)に築いた
津藩11代藩主藤堂高猷(たかゆき)は同時に
砲台を守る衛兵の家中・御供・人足880人の陣屋も築きました。
それがこの二見陣屋で
現在は残るものは何もなく、北側から水道加圧場入る道が
かつては陣屋への門へ至る道です。
そのためか、このあたりの字名を「御門」といいます。
当時は北と南に幅約3mの堀を巡らし、四方を約6mの土塁で囲み、
内側には東西約85m、南北54mの長方形の広さがありました。
その様子は上記図のほかにも二見町全部の地割を載せた
「二見町土地宝典」でも確認できます。

地割を上記図と比較しながら見れば
なんとなく堀の形や陣屋跡が浮かび上がります。
建物は明治維新の廃藩とともに取り払われました。
記録によると明治40年ごろまで周囲の土塀が残っていたそうですが
その頃敷設された参宮線の工事で大部分が壊され
残っていた部分も昭和7年頃にはすっかりなくなったそうです。
今回ちょっと上水道加圧場の周りを歩いてみました。
ちょうど上水道加圧場の東側の藪の中に直径十数cmの
古い材木が何本か打ち捨てられてました。


よく見ればほぞ穴のようなものが確認できる
明らかに柱に使われたと思われる材木、
ひょっとして陣屋に使われてた木材、かもしれませんね。
---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
そのためか、このあたりの字名を「御門」といいます。
当時は北と南に幅約3mの堀を巡らし、四方を約6mの土塁で囲み、
内側には東西約85m、南北54mの長方形の広さがありました。
その様子は上記図のほかにも二見町全部の地割を載せた
「二見町土地宝典」でも確認できます。
地割を上記図と比較しながら見れば
なんとなく堀の形や陣屋跡が浮かび上がります。
建物は明治維新の廃藩とともに取り払われました。
記録によると明治40年ごろまで周囲の土塀が残っていたそうですが
その頃敷設された参宮線の工事で大部分が壊され
残っていた部分も昭和7年頃にはすっかりなくなったそうです。
今回ちょっと上水道加圧場の周りを歩いてみました。
ちょうど上水道加圧場の東側の藪の中に直径十数cmの
古い材木が何本か打ち捨てられてました。
よく見ればほぞ穴のようなものが確認できる
明らかに柱に使われたと思われる材木、
ひょっとして陣屋に使われてた木材、かもしれませんね。
---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状