鮫川砲台として記録されてる茶屋の砲台跡です。
今の賓日館がまさにこの砲台跡です。
場所はここ。
賓日館は廃棄された砲台跡を明治19年(1886年)に
神苑会が買収、建設されました。
ちなみに鮫川砲台が出来るのが
前回ご紹介の今一色・高城砲台と同じ
江戸幕末の文久3年(1863年)です。
まず、鮫川というのは
茶屋区内を流れる小さな川です。
写真は賓日館裏の鮫川です。
かなりのドブ川で臭いもひどく流れの大部分が暗渠になってます。
川として気軽に見られるのはこの賓日館裏あたりだけです。
JRのトンネル入り口あたりの山裾を源流に
二見総合支所の西脇を通り支所北側で東へ流れを変え
サークルK夫婦岩店の駐車場下から
今の国道から賓日館へ入る看板のある道の下から
賓日館の南側を東進、…ここまでずっと暗渠です。
そして興玉神社前まるはまの東側、
興玉神社脇の水門から海へ出ます。
私の祖母は鮫川で洗濯をした、といいますが。
その鮫川が通る地域、
消防署脇から伊勢社会福祉協議会二見支所へ入る道、
(堅田神社へ抜ける道なので堅田道とも言いますが)
その道から東側の茶屋一帯は字(あざ)鮫川という地名です。
(合併前の旧表記で二見町大字江字鮫川です)
さて、賓日館へ入るのに数十cmですが若干の登りになってます。
道路から賓日館の間へ入るのに
少し登りになってます。
ちょっと視線を左へ向けると…
垣が二重になってます。
奥の垣が賓日館庭園部の垣ですが
やはり少し高い場所にあります。
前記の賓日館裏の鮫川の写真でもよく見ると
賓日館は石垣の上に乗ってます。
賓日館の建物の西端を見てみても…
やはり石垣の上、です。
この段差こそが砲台跡の証拠です。
いわば砲台の土塁跡です。
この石垣は砲台当時のものなのか
賓日館が建設されるときに整えられた石垣なのかは
すいません、不明です。
もともと賓日館が建っている場所そのものが
この近辺で周りより少し小高くなっていて
賓日館の門はこの小高い場所の「頂上」に当たります。
賓日館駐車場から入口へ歩いてくるとき注意してみると
道路が少し登っています。
左の写真は賓日館正面の道路から海岸を見ています。
そして右はここから数十メートル東へ行ったところ
興玉神社駐車場前の道路から海岸を見ています。
水平線の位置を基準に
左の賓日館前のほうが堤防が低い、
ということが分かっていただけますか?
堤防の高さは一定だし道路は堤防とまったく平行ですから
賓日館前の堤防が低く見えるということは
それだけ賓日館前の土地が高いということです。
明治初年の頃、茶屋の街は今のバス停、
二見学習センターのところから
北は今の松風軒まで、
東は今の伊勢市社会福祉協議会二見支所まででした。
そこから東、興玉神社までは松林で建物はなく
(興玉神社そのものも現在の場所へ出てきたのが明治30年です)
現在の賓日館は小高くなった砂浜だったと推察できます。
まさに砲台を建設するには小高くてもってこいの場所、だったんでしょう。
前回ご紹介の今一色・高城砲台を
二見浦海岸の西端の守りとするならば
鮫川砲台は東端の守り。
そんな感じでしょうか。
---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
2016年07月25日
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