2016年07月25日

【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状

鮫川砲台として記録されてる茶屋の砲台跡です。
今の賓日館がまさにこの砲台跡です。

場所はここ。


賓日館は廃棄された砲台跡を明治19年(1886年)に
神苑会が買収、建設されました。
ちなみに鮫川砲台が出来るのが
前回ご紹介の今一色・高城砲台と同じ
江戸幕末の文久3年(1863年)です。

まず、鮫川というのは
茶屋区内を流れる小さな川です。

s_P7060004.JPG

写真は賓日館裏の鮫川です。
かなりのドブ川で臭いもひどく流れの大部分が暗渠になってます。
川として気軽に見られるのはこの賓日館裏あたりだけです。

JRのトンネル入り口あたりの山裾を源流に
二見総合支所の西脇を通り支所北側で東へ流れを変え
サークルK夫婦岩店の駐車場下から
今の国道から賓日館へ入る看板のある道の下から
賓日館の南側を東進、…ここまでずっと暗渠です。
そして興玉神社前まるはまの東側、
興玉神社脇の水門から海へ出ます。

私の祖母は鮫川で洗濯をした、といいますが。

その鮫川が通る地域、
消防署脇から伊勢社会福祉協議会二見支所へ入る道、
(堅田神社へ抜ける道なので堅田道とも言いますが)
その道から東側の茶屋一帯は字(あざ)鮫川という地名です。
(合併前の旧表記で二見町大字江字鮫川です)

さて、賓日館へ入るのに数十cmですが若干の登りになってます。

s_P6230031.JPG

道路から賓日館の間へ入るのに
少し登りになってます。

ちょっと視線を左へ向けると…

s_P6230032.JPG

垣が二重になってます。
奥の垣が賓日館庭園部の垣ですが
やはり少し高い場所にあります。

前記の賓日館裏の鮫川の写真でもよく見ると
賓日館は石垣の上に乗ってます。
賓日館の建物の西端を見てみても…

s_P7060002.JPG

やはり石垣の上、です。

この段差こそが砲台跡の証拠です。
いわば砲台の土塁跡です。

この石垣は砲台当時のものなのか
賓日館が建設されるときに整えられた石垣なのかは
すいません、不明です。

もともと賓日館が建っている場所そのものが
この近辺で周りより少し小高くなっていて
賓日館の門はこの小高い場所の「頂上」に当たります。
賓日館駐車場から入口へ歩いてくるとき注意してみると
道路が少し登っています。

左の写真は賓日館正面の道路から海岸を見ています。
そして右はここから数十メートル東へ行ったところ
興玉神社駐車場前の道路から海岸を見ています。

s_P6230030.JPG s_P6230033.JPG

水平線の位置を基準に
左の賓日館前のほうが堤防が低い、
ということが分かっていただけますか?

堤防の高さは一定だし道路は堤防とまったく平行ですから
賓日館前の堤防が低く見えるということは
それだけ賓日館前の土地が高いということです。

明治初年の頃、茶屋の街は今のバス停、
二見学習センターのところから
北は今の松風軒まで、
東は今の伊勢市社会福祉協議会二見支所まででした。

そこから東、興玉神社までは松林で建物はなく
(興玉神社そのものも現在の場所へ出てきたのが明治30年です)
現在の賓日館は小高くなった砂浜だったと推察できます。
まさに砲台を建設するには小高くてもってこいの場所、だったんでしょう。

前回ご紹介の今一色・高城砲台を
二見浦海岸の西端の守りとするならば
鮫川砲台は東端の守り。

そんな感じでしょうか。

---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
posted by 浜参宮観察隊 at 00:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見の話題> 二見温故知新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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