2016年07月11日

【その2】時代背景など

幕末期、二見に築かれた砲台について
少し時代背景を記しておこうと思います。

ざっと年表風に。

1853年(嘉永6年)7月、ペリー艦隊の浦賀入港、江戸幕府に開国を要求。

1853年(嘉永6年)8月、ロシア使節、プチャーチンがペリーに遅れること1ヵ月半後、長崎来航。

1854年(嘉永7年)3月、日米和親条約締結、江戸幕府の鎖国体制の終焉。

1855年(安政2年)1月、江戸幕府下田取締掛の勝麟太郎(後の勝海舟)が山田奉行所とともに二見浦を調査。外敵からの神宮警護の策をめぐらす。

1856年(安政3年)4月、津藩第11代藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)が二見浦を実地検分、茶屋、神前、今一色の3カ所に砲台を築き始める。(安政2年とも)

1858年(安政5年)7月、アメリカ側の領事裁判権が認められ、日本側に関税自主権がないの不平等条約といわれる日米修好通商条約締結。この年、幕府より山田奉行所を通じ津藩に対して神宮警護を厳にするよう通達がある。

1863年(文久3年)5月、茶屋、神前、今一色の砲台が完成。同7月、一色の砲台が完成。同6月、江戸期最後の外宮・内宮のお木曳が挙行される。

1867年(慶応3年)10月、大政奉還。江戸幕府の終焉。


江戸幕府が外敵の来襲から伊勢神宮を守るべく
二見に砲台を築くわけですが
幕府側の最初の調査が勝海舟によって
行われていたというのが驚きです。


---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台
【その4】鮫川(茶屋)砲台
【その5】神前砲台
【その6】二見陣屋
【その7】一色砲台と大湊砲台
posted by 浜参宮観察隊 at 00:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見の話題> 二見温故知新 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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