(ここ何年かは数がだいぶ減りましたけど…)
(管理人がチビの頃…)
(旅館街は身動き取れないくらい、修学旅行生でいっぱいだったんだけどなぁ…)
で、いきなり (ホントいきなり) 話題が飛びますが、すいません
かの宮沢賢治は
盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)学生時代
修学旅行で二見を訪れていた…
大正5年(1916)
20歳。三月、修学旅行により、東京、静岡(興津)、大阪、京都、奈良、大津等の農事試験場を見学、解散後、二見、渥美、知多両半島、箱根を周遊
角川文庫版・ 『銀河鉄道の夜』 宮沢賢治年譜(p.274)より
(賢治が好きな個人的趣味で、すいません)
で、そのときの様子が賢治自身の筆で残っています
わおっ
上記の年譜、続きます
七月、「修学旅行紀行文」(『盛岡高等農林学校校友会会報』三十一号)を発表
むほほ
この「紀行文」、見つけました
『盛岡高等農林学校農学科第二学年修学旅行記』
(校本宮沢賢治全集第十二巻下:筑摩書房1976年より)
500文字足らずの短い文章ですが
きちんと伊勢・二見のことが出てきます
(この本、伊勢の図書館で見つけました)
全文載せたいけど…
長くなりすぎるので、やめます(えっ?
以下の引用は伊勢・二見に関する部分の抜粋です
上の年譜にもあるように各地の農事試験場を見学
京都駅で解散後伊勢に向かいます
500文字、それほど深く
伊勢二見を語っているわけではないですが…
先ず外宮に参拝し自動車にて直ちに内宮に向ふ。五十鈴川の清き流れに顔を洗い大樹森々たる御苑の中を縫うて進めば其の神々しさは言語に絶し神前に対する時自ら頭の下がるのを覚えた。
このあたり求道的精神の強い賢治ならではの感慨ですな
さて、内宮参拝後、日露戦争の記念品(…尾上の虎尾山のこと?)
を見物しいよいよ二見へ入ります
日露戦争の記念品を見旧街道を見物して後二見ヶ浦に向ひ直ちに立石に行かば折から名物の伊勢の夕凪にて一波立たず油を流したるが如き海上はるかに知多の半島はまぼろしの如くでその風景の絶佳云はん方なしだ。
夫婦岩を 『立石』 と書いているあたりが興味深い…
当時はまだ、夫婦岩の名称は一般的ではなかったのかな?
(明治44年の文章に夫婦岩の名は初見)
一同二見館に宿り翌朝日の出を拝し静かなる朝凪を利用して汽船にて三河国蒲郡に着し直ちに東京に向かった。(完)
おぉ宮沢賢治は二見館に泊まったのですかぁ!
もっとも二見館は平成13年に旅館業を廃し
今は二見館別館 『賓日館』 が資料館になっております
●賓日館 : http://hinjitsukan.com/
いろいろ立場上(どんな立場!?)
賓日館にはよく足を運ぶんですが
宮沢賢治の資料は、見たことないなぁ…
しかし今回は…
文字ばっかりの半分趣味な記事で
すみませぬ…