「男一生に一度は富士詣り」
今頃はご来光でしょうか・・・
土路の富士講をお伝えしてきましたが、
なんと!二見の松下地区も、富士講です
毎申年の富士詣り、若い衆の多かったときは
「あいさ詣り」といって申年と申年の間でも
行われていたというもの
松下社絵馬殿には富士詣りを
描いたものがいくつか奉納されています
道唄には、祓い島で禊ぎをし、富士山を遙に拝み、
千尋の浜より船に乗り、吉田の港へ
(千尋の浜は潜島への鳥居があるあたり)
ふたかわ、しらつか、まえざか、浜松、天竜川
掛川、にっさか、中山、菊川、金谷、大井川、島田
藤枝、まりこ祝、安倍川、府中、江尻、清見寺、美保松原
たごの裏、おきつ川、ゆい、かんばら、富士川・・・と
道中の名だたる場所が示されています
かつては海路を兼ねた大変な旅の行程
今回は7名が霊峰・富士を目指し、陸路で
28日朝5時に出発、午後3時頃に5号目に
登拝のあいだ、松下コミセンに家族の方と区長さんたちが
昔は、弓祭りもする広場に、富士を象った屋台を組んで
熊笹と松の木で御山を築き、囃子の舞台をセット
平成4年まで、このような形で夜通し躍り続けたそうで
前回の平成16年に、コミセンに設置
今回も前日27日に区長さんたちが準備してくれました
昔は松下が慶光院の寄子であった関係からか
富士詣りのことを慶光院に報告していたと
地下文書に記されているようです
松栄会のみなさん、ご無事の下山を!
2016年07月29日
2016年07月27日
土路の富士講2当日
土路の富士講、準備から一週間
23日、朝6時に出発式です
講員21名、世話人5名が
霊峰富士山に向け旅立ちます
数え年2歳以上の子らが富士講のために
12年積み立てをしてまして、なので
一番下が13歳、上は25歳が講員となります
道行唄を唄い、踊りで送り出し
♪はちじょうまわりて すなおりおり
ソリャセー ソリャセーと唄は28番まで
男子老人会の美声が御山の周りに響きます
最後は村社の高羽江社へお参りし
(御祭神はなんと荒木田之神!)
いざ、富士山5合目に向けて、バス出陣
*−*−*−*−*
浅間神社に集まったみなさんもいったん解散
一行が5合目に到着し、歩き出す夕刻、再び集まり、
講員の道中安全を祈って、夜通し踊りが始まりました
ご婦人方は総勢40名弱、
この日まで繰り返し練習もしてきました
前回12年前は土砂降りだったそうですが
今回は伊勢も富士山もお天気に恵まれました
一夜明けた午前5時前、富士講のみなさん、無事ご来光を拝んだようです
しかーし、頂上までが長蛇の列(さすがにシーズン)、
1時間の渋滞で、いったん土路でも解散しましたが
下山するまで踊り続けました(24日11時頃)
江戸時代中頃に成立した富士信仰
山もとに暮らす人たちや、
富士山を望む地域に広がっています
遥か東の海上に富士の山を遠望する伊勢湾岸
浜から少しだけ、朝日が顔を出しました
2016年07月25日
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
鮫川砲台として記録されてる茶屋の砲台跡です。
今の賓日館がまさにこの砲台跡です。
場所はここ。
賓日館は廃棄された砲台跡を明治19年(1886年)に
神苑会が買収、建設されました。
ちなみに鮫川砲台が出来るのが
前回ご紹介の今一色・高城砲台と同じ
江戸幕末の文久3年(1863年)です。
まず、鮫川というのは
茶屋区内を流れる小さな川です。
写真は賓日館裏の鮫川です。
かなりのドブ川で臭いもひどく流れの大部分が暗渠になってます。
川として気軽に見られるのはこの賓日館裏あたりだけです。
JRのトンネル入り口あたりの山裾を源流に
二見総合支所の西脇を通り支所北側で東へ流れを変え
サークルK夫婦岩店の駐車場下から
今の国道から賓日館へ入る看板のある道の下から
賓日館の南側を東進、…ここまでずっと暗渠です。
そして興玉神社前まるはまの東側、
興玉神社脇の水門から海へ出ます。
私の祖母は鮫川で洗濯をした、といいますが。
その鮫川が通る地域、
消防署脇から伊勢社会福祉協議会二見支所へ入る道、
(堅田神社へ抜ける道なので堅田道とも言いますが)
その道から東側の茶屋一帯は字(あざ)鮫川という地名です。
(合併前の旧表記で二見町大字江字鮫川です)
さて、賓日館へ入るのに数十cmですが若干の登りになってます。
道路から賓日館の間へ入るのに
少し登りになってます。
ちょっと視線を左へ向けると…
垣が二重になってます。
奥の垣が賓日館庭園部の垣ですが
やはり少し高い場所にあります。
前記の賓日館裏の鮫川の写真でもよく見ると
賓日館は石垣の上に乗ってます。
賓日館の建物の西端を見てみても…
やはり石垣の上、です。
この段差こそが砲台跡の証拠です。
いわば砲台の土塁跡です。
この石垣は砲台当時のものなのか
賓日館が建設されるときに整えられた石垣なのかは
すいません、不明です。
もともと賓日館が建っている場所そのものが
この近辺で周りより少し小高くなっていて
賓日館の門はこの小高い場所の「頂上」に当たります。
賓日館駐車場から入口へ歩いてくるとき注意してみると
道路が少し登っています。
左の写真は賓日館正面の道路から海岸を見ています。
そして右はここから数十メートル東へ行ったところ
興玉神社駐車場前の道路から海岸を見ています。
水平線の位置を基準に
左の賓日館前のほうが堤防が低い、
ということが分かっていただけますか?
堤防の高さは一定だし道路は堤防とまったく平行ですから
賓日館前の堤防が低く見えるということは
それだけ賓日館前の土地が高いということです。
明治初年の頃、茶屋の街は今のバス停、
二見学習センターのところから
北は今の松風軒まで、
東は今の伊勢市社会福祉協議会二見支所まででした。
そこから東、興玉神社までは松林で建物はなく
(興玉神社そのものも現在の場所へ出てきたのが明治30年です)
現在の賓日館は小高くなった砂浜だったと推察できます。
まさに砲台を建設するには小高くてもってこいの場所、だったんでしょう。
前回ご紹介の今一色・高城砲台を
二見浦海岸の西端の守りとするならば
鮫川砲台は東端の守り。
そんな感じでしょうか。
---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
今の賓日館がまさにこの砲台跡です。
場所はここ。
賓日館は廃棄された砲台跡を明治19年(1886年)に
神苑会が買収、建設されました。
ちなみに鮫川砲台が出来るのが
前回ご紹介の今一色・高城砲台と同じ
江戸幕末の文久3年(1863年)です。
まず、鮫川というのは
茶屋区内を流れる小さな川です。
写真は賓日館裏の鮫川です。
かなりのドブ川で臭いもひどく流れの大部分が暗渠になってます。
川として気軽に見られるのはこの賓日館裏あたりだけです。
JRのトンネル入り口あたりの山裾を源流に
二見総合支所の西脇を通り支所北側で東へ流れを変え
サークルK夫婦岩店の駐車場下から
今の国道から賓日館へ入る看板のある道の下から
賓日館の南側を東進、…ここまでずっと暗渠です。
そして興玉神社前まるはまの東側、
興玉神社脇の水門から海へ出ます。
私の祖母は鮫川で洗濯をした、といいますが。
その鮫川が通る地域、
消防署脇から伊勢社会福祉協議会二見支所へ入る道、
(堅田神社へ抜ける道なので堅田道とも言いますが)
その道から東側の茶屋一帯は字(あざ)鮫川という地名です。
(合併前の旧表記で二見町大字江字鮫川です)
さて、賓日館へ入るのに数十cmですが若干の登りになってます。
道路から賓日館の間へ入るのに
少し登りになってます。
ちょっと視線を左へ向けると…
垣が二重になってます。
奥の垣が賓日館庭園部の垣ですが
やはり少し高い場所にあります。
前記の賓日館裏の鮫川の写真でもよく見ると
賓日館は石垣の上に乗ってます。
賓日館の建物の西端を見てみても…
やはり石垣の上、です。
この段差こそが砲台跡の証拠です。
いわば砲台の土塁跡です。
この石垣は砲台当時のものなのか
賓日館が建設されるときに整えられた石垣なのかは
すいません、不明です。
もともと賓日館が建っている場所そのものが
この近辺で周りより少し小高くなっていて
賓日館の門はこの小高い場所の「頂上」に当たります。
賓日館駐車場から入口へ歩いてくるとき注意してみると
道路が少し登っています。
左の写真は賓日館正面の道路から海岸を見ています。
そして右はここから数十メートル東へ行ったところ
興玉神社駐車場前の道路から海岸を見ています。
水平線の位置を基準に
左の賓日館前のほうが堤防が低い、
ということが分かっていただけますか?
堤防の高さは一定だし道路は堤防とまったく平行ですから
賓日館前の堤防が低く見えるということは
それだけ賓日館前の土地が高いということです。
明治初年の頃、茶屋の街は今のバス停、
二見学習センターのところから
北は今の松風軒まで、
東は今の伊勢市社会福祉協議会二見支所まででした。
そこから東、興玉神社までは松林で建物はなく
(興玉神社そのものも現在の場所へ出てきたのが明治30年です)
現在の賓日館は小高くなった砂浜だったと推察できます。
まさに砲台を建設するには小高くてもってこいの場所、だったんでしょう。
前回ご紹介の今一色・高城砲台を
二見浦海岸の西端の守りとするならば
鮫川砲台は東端の守り。
そんな感じでしょうか。
---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
2016年07月21日
土路の富士講1準備
連休最終日の18日は東豊浜の土路へ
浅間神社です
平成16年は12年前、土路では12年に一度の申年に
富士山頂へ登拝する、富士講という行事が伝わっています
それが23日の土曜、その富士参りに向けての準備が
これまた、大変なことで。。。
鳥居上の松の木が傾いてるの、わかります?
12年かけて育てた松の大木、いわゆる富士参りのご神木
これを御山に見立てた富士塚の頂上にまつるのですが…
大きくなりすぎてました
なんでも、松食い虫にやられるとあかんと
栄養たっぷり与えてたら、スクスクスクと
ユンボで太刀打ちできないほどに(午後はクレーン登場)
まるっと一日かけて、
神社の広場に立派な御山ができました
赤土盛って、芝張って、美しいっ
23日は朝6時に登拝の一行が出発
その日夕刻からこの御山の周りで
みなで躍って富士参りの無事を祈ります
浅間神社です
平成16年は12年前、土路では12年に一度の申年に
富士山頂へ登拝する、富士講という行事が伝わっています
それが23日の土曜、その富士参りに向けての準備が
これまた、大変なことで。。。
鳥居上の松の木が傾いてるの、わかります?
12年かけて育てた松の大木、いわゆる富士参りのご神木
これを御山に見立てた富士塚の頂上にまつるのですが…
大きくなりすぎてました
なんでも、松食い虫にやられるとあかんと
栄養たっぷり与えてたら、スクスクスクと
ユンボで太刀打ちできないほどに(午後はクレーン登場)
まるっと一日かけて、
神社の広場に立派な御山ができました
赤土盛って、芝張って、美しいっ
23日は朝6時に登拝の一行が出発
その日夕刻からこの御山の周りで
みなで躍って富士参りの無事を祈ります
河崎・天王さん
2016年07月18日
【その3】高城(今一色)砲台の現状
高城(今一色)砲台
三重県教育委員会(1984年).三重の近世城郭 p.72
三重県教育委員会提供
高城砲台の跡地は高城神社前の丘陵地です。
地図の赤いピンのところになります。
写真では右建物奥の丘陵地です。
手前後が高城神社になります。
高城神社側から藪の中へ入ってみました。
藪を入って行くと
思った以上にきれいな土塁跡が目の前に現れます。
高さにしておよそ2mほど。
それが上段の土塁ということになります。
上段の土塁が目の前に現れるまでの若干の登りが
確かに下段の土塁だとも見受けられます。
今一色砲台図によると北西部に
出入り口状の凹みがみられますが
こちらは藪が深くて未確認です。
土塁はかつて石垣となっていて東北部に石垣の石材が
数個あるとのことですがこれも未確認です。
土塁の上部、砲台面はきれいな平面でかなり広いです。
今一色砲台図によれば規模としておよそ90m四方。
全面に竹が多い茂ってますが
規模は大きなことはわかります。
土塁の下は赤土で覆われていて
三津から船で運ばれた赤土と伝えられてるそうです。
明治22年の『二見郷七ヵ村明細図』には
北辺約10m、南辺約80m、南北約75mの
六角形に近い平面が記されているそうですが
この北辺で当時は海に接していたということで
完成当時は海に面した砲台だったわけです。
完成したのは文久三年(1863年)5月ごろで
大政奉還(1867年)の4年前です。
---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台の現状
【その4】鮫川(茶屋)砲台の現状
【その5】神前砲台の現状
【その6】二見陣屋の現状
【その7】一色砲台と大湊砲台の現状
2016年07月15日
しめなわ曳
2016年07月13日
2016年07月11日
【その2】時代背景など
幕末期、二見に築かれた砲台について
少し時代背景を記しておこうと思います。
ざっと年表風に。
江戸幕府が外敵の来襲から伊勢神宮を守るべく
二見に砲台を築くわけですが
幕府側の最初の調査が勝海舟によって
行われていたというのが驚きです。
---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台
【その4】鮫川(茶屋)砲台
【その5】神前砲台
【その6】二見陣屋
【その7】一色砲台と大湊砲台
少し時代背景を記しておこうと思います。
ざっと年表風に。
1853年(嘉永6年)7月、ペリー艦隊の浦賀入港、江戸幕府に開国を要求。
1853年(嘉永6年)8月、ロシア使節、プチャーチンがペリーに遅れること1ヵ月半後、長崎来航。
1854年(嘉永7年)3月、日米和親条約締結、江戸幕府の鎖国体制の終焉。
1855年(安政2年)1月、江戸幕府下田取締掛の勝麟太郎(後の勝海舟)が山田奉行所とともに二見浦を調査。外敵からの神宮警護の策をめぐらす。
1856年(安政3年)4月、津藩第11代藩主藤堂高猷(とうどうたかゆき)が二見浦を実地検分、茶屋、神前、今一色の3カ所に砲台を築き始める。(安政2年とも)
1858年(安政5年)7月、アメリカ側の領事裁判権が認められ、日本側に関税自主権がないの不平等条約といわれる日米修好通商条約締結。この年、幕府より山田奉行所を通じ津藩に対して神宮警護を厳にするよう通達がある。
1863年(文久3年)5月、茶屋、神前、今一色の砲台が完成。同7月、一色の砲台が完成。同6月、江戸期最後の外宮・内宮のお木曳が挙行される。
1867年(慶応3年)10月、大政奉還。江戸幕府の終焉。
江戸幕府が外敵の来襲から伊勢神宮を守るべく
二見に砲台を築くわけですが
幕府側の最初の調査が勝海舟によって
行われていたというのが驚きです。
---二見の砲台---
【その1】はじめに
【その2】時代背景など
【その3】高城(今一色)砲台
【その4】鮫川(茶屋)砲台
【その5】神前砲台
【その6】二見陣屋
【その7】一色砲台と大湊砲台