賓日館入口、向かって右側に立つ石碑です。
明治十八年四月の日付で二見浦海水浴場を称える漢詩文が刻まれています。
現在の厚生労働省にあたる内務省衛生局、初代局長長与専斉の作、書。
明治十五年十月十九日付で二見浦が全国初の公認海水浴場となります。
この当時の海水浴というのは今でいう湯治治療のようなもので、
海に浸かる冷浴と海水を沸かして入る温浴でもって
心身のリフレッシュを図る目的があったそうです。
海に浸かる冷浴(海水浴)は岩石が露出した磯のほうが
波の作る飛沫、白泡で皮膚が摩擦されるのでよいと考えられていて、
夫婦岩のある立石崎が最適とされました。
そして今の興玉神社社務所脇に温浴槽四個が設けられてたといいます。
ちなみに今の興玉神社ができるのは明治三十年です。
しかし、当時の茶屋の旅館街は
今の赤福から松風軒、松風軒より茶屋の町中へ入る道沿いを
今の社協二見支所手前あたりまでで、
宿から海水浴地まで1km近くあった上、
立石崎にいたる道も今の興玉神社参道のように
整備されてなく不便だったため
海水浴場は明治十七年、立石崎手前、
賓日館の前あたりの砂浜へ移転されます。
この時、現在の御福餅向かい、菊一文字の地で
旅籠屋をしていた若松屋
(旧二見館、現在の賓日館を有した旅館)
は海水浴場が立石崎手前の砂浜へ移転されるのを機に
現在の賓日館の地へ進出し、二見館を開業します。
「二見浦浴潮場石表銘」の石碑が賓日館入り口脇に立つのは
そのような所以があるためです。