一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚
●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html
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西行は平安後期から鎌倉初期にかけての僧侶で
奥州,四国,吉野,熊野,高野,四国など各地を行脚し
自然を詠んだ歌をたくさん残しています
西行は俗名を佐藤義清(のりきよ)という名で
鳥羽上皇の北面の武士として活躍していました
北面の武士とは上皇の警護担当の武士集団です
●北面の武士(wikipedia より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%A3%AB
北面の武士になる者は武芸達者はもちろん
眉目秀麗で詩歌管弦に堪能であることが
求められたようです
実際出家した後も西行は女性にもてた
という話もあります
また男色文化の当時,場合によっては
上皇の枕席のお供をすることもあったという,
位は低いが華やかな職務だったといいます
そのような華やかな職務についていた
佐藤義清こと西行は23歳のとき突然出家します
その理由については諸説ありますが
いまだ謎とされています
出家直後の歌として…
世の中を捨てて 捨てえぬ心地して 都はなれぬ我身なりけり
心から心にものを思わせて 身を苦しむる我身なりけり
世をのがれて伊勢のかたへまかりけるに,鈴鹿山にて鈴鹿山 うき世をよそにふり捨てて いかになりゆくわが身なりけり
その出家への想いには
複雑なものがあった,のでしょうか…
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二見旅館街,朝日館裏に西行の句碑があります
伊勢に二見と云う所にて浪越すと二見の松の見えつるは 梢にかかる霞なりけり
西行自身何度も伊勢の地には
足を運んでいたようですが
晩年期の治承四年(1180年)から
文治二年(1186年)までの7年間を
二見で過ごしています
西行が伊勢の地に来た理由として挙げられるのは…
平清盛が孫の安徳天皇を伴って強行した
清盛晩年の大失策,福原(現在の神戸市)遷都や
台頭する平氏打倒の謀略として有名な
京都東山・鹿ケ谷事件などの
後の源平合戦へと続く不穏な時代の空気から逃れるため…
…だといわれています
西行自身による『千載和歌集』には
伊勢の国の二見浦の山寺に侍りけに…
とあり,また鴨長明はその著書『伊勢記』に
西行法師すみ侍ける安養山といふところ…
と記しています
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二見の西側に横たわる
水平にスパッと切り取っちゃったような
平らな山があります
その名を五峰山といいます
五峰…,といいつつ
どちらかというと
四ヶ所の切れ込みがある山…
といった様相
二見の国道越しによく見えます
(この山の南側は『光の街』として開発真っ最中です)
そしてその五峰山の西の端の小さな丘
そこを豆石山といい,別名安養山といっています
(五峰山西端,安養山;鹿海側から)
その安養山には安養寺跡というものがあり
長らくその所在が不明でしたが
平成4年の発掘調査で寺院跡が確認され
西行の草庵跡の可能性がある遺物が
多数発見されています
西行はこの安養寺に庵を結んで
内宮へ参詣通いをしていたらしく
神宮神官とも深い交流があったようです
何事のおわしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる
伊勢神宮を詣でた西行が詠んだ歌とされている歌です
伊勢にまかりたりけるに,三津と申す所にて,海辺暮と云う事を神主どもよみけるに過ぐる春 しほのみつより船出して 波の花をやさきに立つらん
基本的に句会など開かなかった西行が
二見では上の歌のように
『神官ども』 との交流をずいぶん楽しんだようです
また,神官荒木田満義は西行の弟子となり
名も蓮阿と変え,出家しています
その蓮阿が二見での西行の暮らしぶりについて
自然石を硯に用いたり,歌の文台として扇や花かごを用いる…
というようなことを書き残しています
西行はこの安養寺の庵を拠点に
菩提山神宮寺にも庵を持ち
行き来をしていたといいます
菩提山神宮寺…
今の五十鈴公園,陸上競技場あたりにあった
大きな寺院です
今でもその寺院跡奥にあたる
ちょうど今の県営陸上競技場奥
伊勢道路のトンネル入り口辺りに
西行谷という地名が残っています
この伊勢での7年間の生活の後
西行は彼の生涯最後の大旅へ出立します
行き先は奥州平泉(現在の岩手県平泉町)
その頃焼け落ちた
東大寺大仏殿再建に必要な金(きん)を求めるため
中尊寺金色堂で有名な砂金の産地,平泉にいた
奥州藤原氏三代目当主,藤原秀衡(ひでひら)に会うためでした
平泉は出家して間もない頃旅立った場所でもあり
西行自身の平泉再訪は実に40年ぶりでした
奥州藤原氏との旧交を温めたと思われます
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この西行の平泉訪問について
少し興味深い,とある説が…
五峰山の隣山,音無山は
源義経の重要家来,伊勢三郎義盛が
生まれ住んだ所といわれています
(実際,音無山を地元では『三郎山』とも呼んでいます)
安養寺にいた西行とは面識があったと考えられてます
西行が奥州へ旅立つのは1186年
義経の活躍により壇ノ浦で平家が惨敗するのが前年の1185年
この一年というタイムラグが興味をそそります
壇ノ浦の合戦後義経は兄頼朝から追われる身となります
(平家滅亡の功績を称える朝廷の義経への待遇を巡って…)
(頼朝が激怒したため,といいます)
(義経はむしろ兄に褒めてもらえると思って受けた朝廷側の栄誉ある待遇ですが…)
追われの身となった義経は
奥州藤原氏,藤原秀衡を頼って平泉へと逃げます
義経を守るよう秀衡に遺言された
息子泰衡(やすひら)ですが
しかし,頼朝の圧力に屈服し義経を攻めます
そして,義経は平泉で自害します
壇ノ浦の合戦から4年後の1189年のことです
その義経は,平泉へ逃げる時
内宮へ寄り黄金の剣を奉納,参詣しています
西行が平泉へ旅たつのはその直後です
そして途中鎌倉へ寄り,頼朝とも面会しています
兄頼朝の誤解を解きたかったといわれる義経は
内宮へ来たとき西行に伊勢三郎義盛を通じて会い
頼朝や平泉へ何らかの取り計らいを頼んだのではないかと…
伊勢三郎義盛を間にして西行と義経の関係が興味深いです
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さて…
現在,安養寺跡ならびに西行庵跡は
残念ながら宅地開発で完全に崩されています
昭和3年,二見十景を著した松本正純氏はその序で
二見で過す日々が重なるごとに「世の中の移り変わりの中の名所旧跡がだんだん忘れられていくのが寂しい…」
との思いで 『二見十景』 を
作ることを決心したと書いています
それから約80年…
二見十景の一つは失われてしました
安養寺跡は山とともに
その痕跡すら崩されてしまいました
地元として,大変残念なことです
と同時にそれは安養寺跡に価値を見出させなかった
地元としての大いなる反省材料かも知れません
加えて開発はそこの風景を変えてしまいます
小さいですが一つの山が寺院跡ととも失われ
あたりの風景はがらりと変わってしまいました
ほんの十数年前までこのあたりは
小さな細い道だけがついた一面の葦原でした
五十鈴の川の流れは,室町後期の大地震で変わったとはいえ
おそらく西行が見たであろう風景をついこの間まで残していました
何百年と変わらなかった風景は
十数年前に始まった数年の工事で
あっというまにその風景を変えてしまいました
壊すことはものすごく簡単です
でも,その風景を戻すことは
…間違いなく不可能です
(安養寺発掘調査の詳細,成果は…)
(旧二見町の教育委員会のロッカーに…)
(いれたままになっているんだって…)
(なんとかしようよ…)
西行は花鳥風月の歌人ではない。こうした何を信じていいか分からぬ時代(注:源平争覇,平氏滅亡の時代)にも,なお変わらぬものがあるかも知れない。もしあるとしたら自然であれ,人情であれ,それを見届けたいと思ったことであろう。反対にないならないで,またそれを見届けたいと思ったに違いない。もしそうでなかったら,西行は西行でないのである。
井上靖著/西行・山家集より
開発された山に背を向け振り返ると
そこにはかろうじて昔と変わらぬ風景がありました
そこから見えるのは…
西行が見たであろう水面きらめく五十鈴川であり
その奥,意外に近くに見える神路山,鼓ヶ岳であり
その裾には西行が通った内宮があります
ここに立つとふと考えます
井上靖の言うように,それでもやはり西行は
この開発を見届けてくれたのだろうか…
大いに考えさせられます…
六の浜荻はかろうじて残っています
今回七の西行庵は失われました
残りの十景がこれからも末永く
その形態を保ってくれることを願います
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さて,西行は平泉への旅から戻った
建久元年(1190年)今の大阪府河南町にある
広川寺で亡くなります
願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
入寂は旧暦二月十六日,行年七十三歳
自身が作った歌のとおり旧暦の如月十六日…
つまり十五夜望月(満月)の翌日だったというわけです
(作歌年時不明だけど,辞世の句ではないそうです)
またこの日は,釈尊涅槃の日でもあります
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−参考−
●西行/白洲正子・新潮文庫
●西行・山河集/井上靖・学研M文庫
●二見町史
●digital 西行庵 http://www.saigyo.org/
●平安京探偵団 http://homepage1.nifty.com/heiankyo/index.html
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『二見十景・七/西行庵』
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