ポプラ社から出てる「伊勢神宮ひとり歩き」
伊勢神宮のことがわかりやすく
でも結構深く紹介されてて
親しみやすい本です
で
ですね
パラパラめくってましたら
なんと茶屋がこんなにデカク
載ってるんですね
お木曳のメインです!
この写真!!!
茶屋の方
いざ本屋さんへっ
定価1500円です
こちらからでも…↓
アマゾンのページ
2007年01月28日
2007年01月23日
二見十景・七/西行庵
二見十景目次
一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚
●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html
---------------------------------------------------------------------
西行は平安後期から鎌倉初期にかけての僧侶で
奥州,四国,吉野,熊野,高野,四国など各地を行脚し
自然を詠んだ歌をたくさん残しています
西行は俗名を佐藤義清(のりきよ)という名で
鳥羽上皇の北面の武士として活躍していました
北面の武士とは上皇の警護担当の武士集団です
●北面の武士(wikipedia より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%A3%AB
北面の武士になる者は武芸達者はもちろん
眉目秀麗で詩歌管弦に堪能であることが
求められたようです
実際出家した後も西行は女性にもてた
という話もあります
また男色文化の当時,場合によっては
上皇の枕席のお供をすることもあったという,
位は低いが華やかな職務だったといいます
そのような華やかな職務についていた
佐藤義清こと西行は23歳のとき突然出家します
その理由については諸説ありますが
いまだ謎とされています
出家直後の歌として…
その出家への想いには
複雑なものがあった,のでしょうか…
---------------------------------------------------------------------
二見旅館街,朝日館裏に西行の句碑があります
西行自身何度も伊勢の地には
足を運んでいたようですが
晩年期の治承四年(1180年)から
文治二年(1186年)までの7年間を
二見で過ごしています
西行が伊勢の地に来た理由として挙げられるのは…
平清盛が孫の安徳天皇を伴って強行した
清盛晩年の大失策,福原(現在の神戸市)遷都や
台頭する平氏打倒の謀略として有名な
京都東山・鹿ケ谷事件などの
後の源平合戦へと続く不穏な時代の空気から逃れるため…
…だといわれています
西行自身による『千載和歌集』には
伊勢の国の二見浦の山寺に侍りけに…
とあり,また鴨長明はその著書『伊勢記』に
西行法師すみ侍ける安養山といふところ…
と記しています
---------------------------------------------------------------------
二見の西側に横たわる
水平にスパッと切り取っちゃったような
平らな山があります
その名を五峰山といいます
五峰…,といいつつ
どちらかというと
四ヶ所の切れ込みがある山…
といった様相
二見の国道越しによく見えます
(この山の南側は『光の街』として開発真っ最中です)
そしてその五峰山の西の端の小さな丘
そこを豆石山といい,別名安養山といっています
(五峰山西端,安養山;鹿海側から)
その安養山には安養寺跡というものがあり
長らくその所在が不明でしたが
平成4年の発掘調査で寺院跡が確認され
西行の草庵跡の可能性がある遺物が
多数発見されています
西行はこの安養寺に庵を結んで
内宮へ参詣通いをしていたらしく
神宮神官とも深い交流があったようです
伊勢神宮を詣でた西行が詠んだ歌とされている歌です
基本的に句会など開かなかった西行が
二見では上の歌のように
『神官ども』 との交流をずいぶん楽しんだようです
また,神官荒木田満義は西行の弟子となり
名も蓮阿と変え,出家しています
その蓮阿が二見での西行の暮らしぶりについて
自然石を硯に用いたり,歌の文台として扇や花かごを用いる…
というようなことを書き残しています
西行はこの安養寺の庵を拠点に
菩提山神宮寺にも庵を持ち
行き来をしていたといいます
菩提山神宮寺…
今の五十鈴公園,陸上競技場あたりにあった
大きな寺院です
今でもその寺院跡奥にあたる
ちょうど今の県営陸上競技場奥
伊勢道路のトンネル入り口辺りに
西行谷という地名が残っています
この伊勢での7年間の生活の後
西行は彼の生涯最後の大旅へ出立します
行き先は奥州平泉(現在の岩手県平泉町)
その頃焼け落ちた
東大寺大仏殿再建に必要な金(きん)を求めるため
中尊寺金色堂で有名な砂金の産地,平泉にいた
奥州藤原氏三代目当主,藤原秀衡(ひでひら)に会うためでした
平泉は出家して間もない頃旅立った場所でもあり
西行自身の平泉再訪は実に40年ぶりでした
奥州藤原氏との旧交を温めたと思われます
---------------------------------------------------------------------
この西行の平泉訪問について
少し興味深い,とある説が…
五峰山の隣山,音無山は
源義経の重要家来,伊勢三郎義盛が
生まれ住んだ所といわれています
(実際,音無山を地元では『三郎山』とも呼んでいます)
安養寺にいた西行とは面識があったと考えられてます
西行が奥州へ旅立つのは1186年
義経の活躍により壇ノ浦で平家が惨敗するのが前年の1185年
この一年というタイムラグが興味をそそります
壇ノ浦の合戦後義経は兄頼朝から追われる身となります
(平家滅亡の功績を称える朝廷の義経への待遇を巡って…)
(頼朝が激怒したため,といいます)
(義経はむしろ兄に褒めてもらえると思って受けた朝廷側の栄誉ある待遇ですが…)
追われの身となった義経は
奥州藤原氏,藤原秀衡を頼って平泉へと逃げます
義経を守るよう秀衡に遺言された
息子泰衡(やすひら)ですが
しかし,頼朝の圧力に屈服し義経を攻めます
そして,義経は平泉で自害します
壇ノ浦の合戦から4年後の1189年のことです
その義経は,平泉へ逃げる時
内宮へ寄り黄金の剣を奉納,参詣しています
西行が平泉へ旅たつのはその直後です
そして途中鎌倉へ寄り,頼朝とも面会しています
兄頼朝の誤解を解きたかったといわれる義経は
内宮へ来たとき西行に伊勢三郎義盛を通じて会い
頼朝や平泉へ何らかの取り計らいを頼んだのではないかと…
伊勢三郎義盛を間にして西行と義経の関係が興味深いです
---------------------------------------------------------------------
さて…
現在,安養寺跡ならびに西行庵跡は
残念ながら宅地開発で完全に崩されています
昭和3年,二見十景を著した松本正純氏はその序で
との思いで 『二見十景』 を
作ることを決心したと書いています
それから約80年…
二見十景の一つは失われてしました
安養寺跡は山とともに
その痕跡すら崩されてしまいました
地元として,大変残念なことです
と同時にそれは安養寺跡に価値を見出させなかった
地元としての大いなる反省材料かも知れません
加えて開発はそこの風景を変えてしまいます
小さいですが一つの山が寺院跡ととも失われ
あたりの風景はがらりと変わってしまいました
ほんの十数年前までこのあたりは
小さな細い道だけがついた一面の葦原でした
五十鈴の川の流れは,室町後期の大地震で変わったとはいえ
おそらく西行が見たであろう風景をついこの間まで残していました
何百年と変わらなかった風景は
十数年前に始まった数年の工事で
あっというまにその風景を変えてしまいました
壊すことはものすごく簡単です
でも,その風景を戻すことは
…間違いなく不可能です
(安養寺発掘調査の詳細,成果は…)
(旧二見町の教育委員会のロッカーに…)
(いれたままになっているんだって…)
(なんとかしようよ…)
開発された山に背を向け振り返ると
そこにはかろうじて昔と変わらぬ風景がありました
そこから見えるのは…
西行が見たであろう水面きらめく五十鈴川であり
その奥,意外に近くに見える神路山,鼓ヶ岳であり
その裾には西行が通った内宮があります
ここに立つとふと考えます
井上靖の言うように,それでもやはり西行は
この開発を見届けてくれたのだろうか…
大いに考えさせられます…
六の浜荻はかろうじて残っています
今回七の西行庵は失われました
残りの十景がこれからも末永く
その形態を保ってくれることを願います
---------------------------------------------------------------------
さて,西行は平泉への旅から戻った
建久元年(1190年)今の大阪府河南町にある
広川寺で亡くなります
入寂は旧暦二月十六日,行年七十三歳
自身が作った歌のとおり旧暦の如月十六日…
つまり十五夜望月(満月)の翌日だったというわけです
(作歌年時不明だけど,辞世の句ではないそうです)
またこの日は,釈尊涅槃の日でもあります
---------------------------------------------------------------------
−参考−
●西行/白洲正子・新潮文庫
●西行・山河集/井上靖・学研M文庫
●二見町史
●digital 西行庵 http://www.saigyo.org/
●平安京探偵団 http://homepage1.nifty.com/heiankyo/index.html
========================================
『二見十景・七/西行庵』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)
一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚
●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html
---------------------------------------------------------------------
西行は平安後期から鎌倉初期にかけての僧侶で
奥州,四国,吉野,熊野,高野,四国など各地を行脚し
自然を詠んだ歌をたくさん残しています
西行は俗名を佐藤義清(のりきよ)という名で
鳥羽上皇の北面の武士として活躍していました
北面の武士とは上皇の警護担当の武士集団です
●北面の武士(wikipedia より)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8C%97%E9%9D%A2%E3%81%AE%E6%AD%A6%E5%A3%AB
北面の武士になる者は武芸達者はもちろん
眉目秀麗で詩歌管弦に堪能であることが
求められたようです
実際出家した後も西行は女性にもてた
という話もあります
また男色文化の当時,場合によっては
上皇の枕席のお供をすることもあったという,
位は低いが華やかな職務だったといいます
そのような華やかな職務についていた
佐藤義清こと西行は23歳のとき突然出家します
その理由については諸説ありますが
いまだ謎とされています
出家直後の歌として…
世の中を捨てて 捨てえぬ心地して 都はなれぬ我身なりけり
心から心にものを思わせて 身を苦しむる我身なりけり
世をのがれて伊勢のかたへまかりけるに,鈴鹿山にて鈴鹿山 うき世をよそにふり捨てて いかになりゆくわが身なりけり
その出家への想いには
複雑なものがあった,のでしょうか…
---------------------------------------------------------------------
二見旅館街,朝日館裏に西行の句碑があります
伊勢に二見と云う所にて浪越すと二見の松の見えつるは 梢にかかる霞なりけり
西行自身何度も伊勢の地には
足を運んでいたようですが
晩年期の治承四年(1180年)から
文治二年(1186年)までの7年間を
二見で過ごしています
西行が伊勢の地に来た理由として挙げられるのは…
平清盛が孫の安徳天皇を伴って強行した
清盛晩年の大失策,福原(現在の神戸市)遷都や
台頭する平氏打倒の謀略として有名な
京都東山・鹿ケ谷事件などの
後の源平合戦へと続く不穏な時代の空気から逃れるため…
…だといわれています
西行自身による『千載和歌集』には
伊勢の国の二見浦の山寺に侍りけに…
とあり,また鴨長明はその著書『伊勢記』に
西行法師すみ侍ける安養山といふところ…
と記しています
---------------------------------------------------------------------
二見の西側に横たわる
水平にスパッと切り取っちゃったような
平らな山があります
その名を五峰山といいます
五峰…,といいつつ
どちらかというと
四ヶ所の切れ込みがある山…
といった様相
二見の国道越しによく見えます
(この山の南側は『光の街』として開発真っ最中です)
そしてその五峰山の西の端の小さな丘
そこを豆石山といい,別名安養山といっています
(五峰山西端,安養山;鹿海側から)
その安養山には安養寺跡というものがあり
長らくその所在が不明でしたが
平成4年の発掘調査で寺院跡が確認され
西行の草庵跡の可能性がある遺物が
多数発見されています
西行はこの安養寺に庵を結んで
内宮へ参詣通いをしていたらしく
神宮神官とも深い交流があったようです
何事のおわしますをばしらねども かたじけなさに涙こぼるる
伊勢神宮を詣でた西行が詠んだ歌とされている歌です
伊勢にまかりたりけるに,三津と申す所にて,海辺暮と云う事を神主どもよみけるに過ぐる春 しほのみつより船出して 波の花をやさきに立つらん
基本的に句会など開かなかった西行が
二見では上の歌のように
『神官ども』 との交流をずいぶん楽しんだようです
また,神官荒木田満義は西行の弟子となり
名も蓮阿と変え,出家しています
その蓮阿が二見での西行の暮らしぶりについて
自然石を硯に用いたり,歌の文台として扇や花かごを用いる…
というようなことを書き残しています
西行はこの安養寺の庵を拠点に
菩提山神宮寺にも庵を持ち
行き来をしていたといいます
菩提山神宮寺…
今の五十鈴公園,陸上競技場あたりにあった
大きな寺院です
今でもその寺院跡奥にあたる
ちょうど今の県営陸上競技場奥
伊勢道路のトンネル入り口辺りに
西行谷という地名が残っています
この伊勢での7年間の生活の後
西行は彼の生涯最後の大旅へ出立します
行き先は奥州平泉(現在の岩手県平泉町)
その頃焼け落ちた
東大寺大仏殿再建に必要な金(きん)を求めるため
中尊寺金色堂で有名な砂金の産地,平泉にいた
奥州藤原氏三代目当主,藤原秀衡(ひでひら)に会うためでした
平泉は出家して間もない頃旅立った場所でもあり
西行自身の平泉再訪は実に40年ぶりでした
奥州藤原氏との旧交を温めたと思われます
---------------------------------------------------------------------
この西行の平泉訪問について
少し興味深い,とある説が…
五峰山の隣山,音無山は
源義経の重要家来,伊勢三郎義盛が
生まれ住んだ所といわれています
(実際,音無山を地元では『三郎山』とも呼んでいます)
安養寺にいた西行とは面識があったと考えられてます
西行が奥州へ旅立つのは1186年
義経の活躍により壇ノ浦で平家が惨敗するのが前年の1185年
この一年というタイムラグが興味をそそります
壇ノ浦の合戦後義経は兄頼朝から追われる身となります
(平家滅亡の功績を称える朝廷の義経への待遇を巡って…)
(頼朝が激怒したため,といいます)
(義経はむしろ兄に褒めてもらえると思って受けた朝廷側の栄誉ある待遇ですが…)
追われの身となった義経は
奥州藤原氏,藤原秀衡を頼って平泉へと逃げます
義経を守るよう秀衡に遺言された
息子泰衡(やすひら)ですが
しかし,頼朝の圧力に屈服し義経を攻めます
そして,義経は平泉で自害します
壇ノ浦の合戦から4年後の1189年のことです
その義経は,平泉へ逃げる時
内宮へ寄り黄金の剣を奉納,参詣しています
西行が平泉へ旅たつのはその直後です
そして途中鎌倉へ寄り,頼朝とも面会しています
兄頼朝の誤解を解きたかったといわれる義経は
内宮へ来たとき西行に伊勢三郎義盛を通じて会い
頼朝や平泉へ何らかの取り計らいを頼んだのではないかと…
伊勢三郎義盛を間にして西行と義経の関係が興味深いです
---------------------------------------------------------------------
さて…
現在,安養寺跡ならびに西行庵跡は
残念ながら宅地開発で完全に崩されています
昭和3年,二見十景を著した松本正純氏はその序で
二見で過す日々が重なるごとに「世の中の移り変わりの中の名所旧跡がだんだん忘れられていくのが寂しい…」
との思いで 『二見十景』 を
作ることを決心したと書いています
それから約80年…
二見十景の一つは失われてしました
安養寺跡は山とともに
その痕跡すら崩されてしまいました
地元として,大変残念なことです
と同時にそれは安養寺跡に価値を見出させなかった
地元としての大いなる反省材料かも知れません
加えて開発はそこの風景を変えてしまいます
小さいですが一つの山が寺院跡ととも失われ
あたりの風景はがらりと変わってしまいました
ほんの十数年前までこのあたりは
小さな細い道だけがついた一面の葦原でした
五十鈴の川の流れは,室町後期の大地震で変わったとはいえ
おそらく西行が見たであろう風景をついこの間まで残していました
何百年と変わらなかった風景は
十数年前に始まった数年の工事で
あっというまにその風景を変えてしまいました
壊すことはものすごく簡単です
でも,その風景を戻すことは
…間違いなく不可能です
(安養寺発掘調査の詳細,成果は…)
(旧二見町の教育委員会のロッカーに…)
(いれたままになっているんだって…)
(なんとかしようよ…)
西行は花鳥風月の歌人ではない。こうした何を信じていいか分からぬ時代(注:源平争覇,平氏滅亡の時代)にも,なお変わらぬものがあるかも知れない。もしあるとしたら自然であれ,人情であれ,それを見届けたいと思ったことであろう。反対にないならないで,またそれを見届けたいと思ったに違いない。もしそうでなかったら,西行は西行でないのである。
井上靖著/西行・山家集より
開発された山に背を向け振り返ると
そこにはかろうじて昔と変わらぬ風景がありました
そこから見えるのは…
西行が見たであろう水面きらめく五十鈴川であり
その奥,意外に近くに見える神路山,鼓ヶ岳であり
その裾には西行が通った内宮があります
ここに立つとふと考えます
井上靖の言うように,それでもやはり西行は
この開発を見届けてくれたのだろうか…
大いに考えさせられます…
六の浜荻はかろうじて残っています
今回七の西行庵は失われました
残りの十景がこれからも末永く
その形態を保ってくれることを願います
---------------------------------------------------------------------
さて,西行は平泉への旅から戻った
建久元年(1190年)今の大阪府河南町にある
広川寺で亡くなります
願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ
入寂は旧暦二月十六日,行年七十三歳
自身が作った歌のとおり旧暦の如月十六日…
つまり十五夜望月(満月)の翌日だったというわけです
(作歌年時不明だけど,辞世の句ではないそうです)
またこの日は,釈尊涅槃の日でもあります
---------------------------------------------------------------------
−参考−
●西行/白洲正子・新潮文庫
●西行・山河集/井上靖・学研M文庫
●二見町史
●digital 西行庵 http://www.saigyo.org/
●平安京探偵団 http://homepage1.nifty.com/heiankyo/index.html
========================================
『二見十景・七/西行庵』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)
2007年01月17日
二見十景・六/浜荻
二見十景目次
一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚
●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html
---------------------------------------------------------------------
”難波の葦は伊勢の浜荻”
「浜荻」って風流なひびきです
この浜荻
三津地区では小字名として使われておりました
今の 『ふたみシルバーケア豊寿園』 あたりですね
伊勢の浜荻は三津が発祥!
三津の名勝地として昔から
知られているのです
万葉集にこんな歌があります
神風の伊勢の浜萩を折り伏せて
旅の仮寝をしていることであろうか
荒々しい浜辺で
万葉の頃
碁壇越(ごのだんおち)という者が伊勢国に赴いたとき
都の妻が夫の旅の苦労を思い詠んだ歌です
神風が相当きつかったんでしょうか
浜荻は葉が片側に寄って傾いてるので
別名を片葉の葦「あし」といいます
ややこしいけど「あし」の別名は「よし」
「あし」は「悪し」に通ずるため
「善し」の別名をもうけたそうです
この浜荻 昔は葦原と言われるほど
広範囲に生えていたようですが
今は田んぼそばの水路で見かけます
もうないのでは…との噂もちらほらですが
絶滅はしておりません!
---------------------------------------------------------------------
浜荻は月とセットでもよく詠まれています
こんなのが・・・
私は伊勢の海辺で旅寝です。
葦を折り敷いて寝床に作り、
都の妻を恋しがりながら、
こうして月を眺めているんだなあ
さっきの万葉集の逆パターンですね
やっぱり浜荻は折ってふとんがわり
ほかにも・・・
そうそう,泉鏡花の 『歌行灯』 の中にも
この部分の脚注に
そう、冒頭の
”難波の葦は伊勢の浜荻”は
物の名前が地方によって様々に異なる
という意味のことわざなのだそうです
その浜荻を誇りにしている三津区では
老人会を「浜荻クラブ」
お木曳の木遣り梃子舞台を「浜荻団」と
名付けておるのですね
『参宮名所図絵』にも三津村の様子が
描かれています
これほどみなの心に留まった浜荻ですから
三津の名勝としてぜひ保存していきたいですね
========================================
『二見十景・六/浜荻』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)
一、夫婦岩 ・ 弐、五十鈴川 ・ 参、御塩殿 ・ 四、潜島 ・ 五、高城濱
六、濱荻 ・ 七、西行庵 ・ 八、太江寺 ・ 九、音無山 ・ 十、清渚
●『二見十景ってなんじゃ?』…はこちら↓
http://hamasanguu.seesaa.net/category/2091208-1.html
---------------------------------------------------------------------
”難波の葦は伊勢の浜荻”
「浜荻」って風流なひびきです
この浜荻
三津地区では小字名として使われておりました
今の 『ふたみシルバーケア豊寿園』 あたりですね
伊勢の浜荻は三津が発祥!
三津の名勝地として昔から
知られているのです
万葉集にこんな歌があります
今頃私の夫は神風の 伊勢の浜荻 折り伏せて 旅宿やすらむ 荒き浜辺に〜碁檀越の妻〜
神風の伊勢の浜萩を折り伏せて
旅の仮寝をしていることであろうか
荒々しい浜辺で
万葉の頃
碁壇越(ごのだんおち)という者が伊勢国に赴いたとき
都の妻が夫の旅の苦労を思い詠んだ歌です
神風が相当きつかったんでしょうか
浜荻は葉が片側に寄って傾いてるので
別名を片葉の葦「あし」といいます
ややこしいけど「あし」の別名は「よし」
「あし」は「悪し」に通ずるため
「善し」の別名をもうけたそうです
この浜荻 昔は葦原と言われるほど
広範囲に生えていたようですが
今は田んぼそばの水路で見かけます
もうないのでは…との噂もちらほらですが
絶滅はしておりません!
---------------------------------------------------------------------
浜荻は月とセットでもよく詠まれています
こんなのが・・・
もったいないような素敵な月夜なのに、あたら夜を 伊勢の浜荻 をりしきて 妹恋しらに 見つる月かな〜藤原基俊/千載集〜
私は伊勢の海辺で旅寝です。
葦を折り敷いて寝床に作り、
都の妻を恋しがりながら、
こうして月を眺めているんだなあ
さっきの万葉集の逆パターンですね
やっぱり浜荻は折ってふとんがわり
ほかにも・・・
いく夜かは 月を哀と ながめきて 浪にをりしく 伊勢のはまをぎ〜越前 新古今集〜
旅寝する 伊勢の浜荻 露ながら むすぶまくらに やどる月影〜鎌倉右大臣 続古今集〜
そうそう,泉鏡花の 『歌行灯』 の中にも
という一節がありますそうさ,いかに伊勢の浜荻だって,按摩の箱屋というのはなかろう
この部分の脚注に
「莬玖玻集」の「草の名も所によりて変わるなり,難波の蘆は伊勢の浜荻」をふまえ,所がかわれば名や品物の変わることのたとえとあります (ちくま日本文学全集・泉鏡花)
そう、冒頭の
”難波の葦は伊勢の浜荻”は
物の名前が地方によって様々に異なる
という意味のことわざなのだそうです
その浜荻を誇りにしている三津区では
老人会を「浜荻クラブ」
お木曳の木遣り梃子舞台を「浜荻団」と
名付けておるのですね
『参宮名所図絵』にも三津村の様子が
描かれています
これほどみなの心に留まった浜荻ですから
三津の名勝としてぜひ保存していきたいですね
========================================
『二見十景・六/浜荻』
(+をクリックしてもらうと拡大,−をクリックしてもらうと広域…)
(上下左右の矢印をクリックしてもらうと,それぞれ北南東西移動…)
(オレンジのマーカーの黒丸部分をクリックしてみてくだされ…)
2007年01月16日
大般若…
本日16日
こんなお札が届けられました
ウチのご近所は大体これを貼ってるんですわ
旧字を使っているけど
『奉転読 大般若経 郷内安全祈所』
と書かれています
最初の記号は…
梵語?
かなぁ…
(ちと分からんです…)
この梵字らしきものが
昔は小鳥に見えたり耳に見えたり
なんか漢字は難しいし
このお札,ナゾめいたモノ,でした
---------------------------------------------------------------------
と毎度の二見町史に載っとりますな
江,茶屋地区といいましても
茶屋地区にはお寺はありません
江地区の『属邑』だったそうで,茶屋地区は
大般若経とは
正確には大般若波羅蜜多経と云って
大乗仏教の基礎的教義が書かれている経典だそうで
しかも,600巻余の膨大な経典なんだとか
この600巻余が江地区にはあるんだそうです
(一部欠損してるらしいけど)
これを転読…
…教典をパラパラ〜として一巻を読誦したことにする形式
をして天下泰平,五穀豊穣,家門繁栄を祈願し
そのお札が,写真のお札…
というわけだそうです
でもこれ,なんでトイレに貼るんだろ?
(ひょっとして,ウチ,だけ…?)
(ええっ?)
こんなお札が届けられました
ウチのご近所は大体これを貼ってるんですわ
旧字を使っているけど
『奉転読 大般若経 郷内安全祈所』
と書かれています
最初の記号は…
梵語?
かなぁ…
(ちと分からんです…)
この梵字らしきものが
昔は小鳥に見えたり耳に見えたり
なんか漢字は難しいし
このお札,ナゾめいたモノ,でした
---------------------------------------------------------------------
毎年1月13日,江,茶屋地区は地区内のお寺に頼んで大般若経を転読し,祈祷法会を行う…
と毎度の二見町史に載っとりますな
江,茶屋地区といいましても
茶屋地区にはお寺はありません
江地区の『属邑』だったそうで,茶屋地区は
大般若経とは
正確には大般若波羅蜜多経と云って
大乗仏教の基礎的教義が書かれている経典だそうで
しかも,600巻余の膨大な経典なんだとか
この600巻余が江地区にはあるんだそうです
(一部欠損してるらしいけど)
これを転読…
…教典をパラパラ〜として一巻を読誦したことにする形式
をして天下泰平,五穀豊穣,家門繁栄を祈願し
そのお札が,写真のお札…
というわけだそうです
でもこれ,なんでトイレに貼るんだろ?
(ひょっとして,ウチ,だけ…?)
(ええっ?)
2007年01月15日
湯立神事
1月14日
江の栄野神社で
湯玉で身を清める
湯立神事がありました
ここは興玉神社の摂社で
江・茶屋の氏神さんでもあります
昨年の注連縄を手に
みなさん境内へ
集まってきました
これは
アマ小屋ならぬ
アマザケ小屋です
おいしい甘酒ごちそうさまです
そして湯玉を沸かす大釜です
湯気があったかい
あっ熊笹 この笹が御幣です
これを大釜の熱湯につけて……
午前11時
境内に二見太鼓が鳴り響き
神職さんが祭壇に向かいます
一連の神事が終わるのを
今か今かとじーっと待つ人々
いよいよ熊笹登場です!
巫女さんが熊笹の束を
どっぷり湯につけアタマの上に
湯玉をふりそそぎます
見えますか?湯玉
これがお清めです
熱湯浴びて心身浄化
それと熱さに耐えるのは
神聖になるための試練でも
火渡りと似てますね
神職さんも順番に
ばっしゃ ばっしゃ
湯玉がアタマに顔に
当たるたびに喜び!?の声が
社殿前にお供えされた
熊笹です
帰りには熊笹と丸与のカタパンを
いただきました
神棚に飾ろうっと
---------------------------------------------------------------------
後日(15日今日…)
氏子宅に配られた
熊笹と御守護です
笹が湯に漬かって
白いシミになっております…
=============================================
●栄野神社
二見シーパラダイス前信号を江地区集落へ入ります
んで,そのまま,そのまま道なりに…
JRの踏切脇の森が栄野神社です
もしくは…
安土桃山文化村下トンネルをくぐった
すぐの信号を左折(東方面)
道なりに同じくJRの踏切,その脇です
(こちらのアプローチをお勧めします)
江の栄野神社で
湯玉で身を清める
湯立神事がありました
ここは興玉神社の摂社で
江・茶屋の氏神さんでもあります
昨年の注連縄を手に
みなさん境内へ
集まってきました
これは
アマ小屋ならぬ
アマザケ小屋です
おいしい甘酒ごちそうさまです
そして湯玉を沸かす大釜です
湯気があったかい
あっ熊笹 この笹が御幣です
これを大釜の熱湯につけて……
午前11時
境内に二見太鼓が鳴り響き
神職さんが祭壇に向かいます
一連の神事が終わるのを
今か今かとじーっと待つ人々
いよいよ熊笹登場です!
巫女さんが熊笹の束を
どっぷり湯につけアタマの上に
湯玉をふりそそぎます
見えますか?湯玉
これがお清めです
熱湯浴びて心身浄化
それと熱さに耐えるのは
神聖になるための試練でも
火渡りと似てますね
神職さんも順番に
ばっしゃ ばっしゃ
湯玉がアタマに顔に
当たるたびに喜び!?の声が
社殿前にお供えされた
熊笹です
帰りには熊笹と丸与のカタパンを
いただきました
神棚に飾ろうっと
---------------------------------------------------------------------
後日(15日今日…)
氏子宅に配られた
熊笹と御守護です
笹が湯に漬かって
白いシミになっております…
=============================================
●栄野神社
二見シーパラダイス前信号を江地区集落へ入ります
んで,そのまま,そのまま道なりに…
JRの踏切脇の森が栄野神社です
もしくは…
安土桃山文化村下トンネルをくぐった
すぐの信号を左折(東方面)
道なりに同じくJRの踏切,その脇です
(こちらのアプローチをお勧めします)
2007年01月14日
レトロな標識…
二見から旧国道,汐合橋渡って
堤防すぐに左へ入ると鹿海へ抜けます
(伊勢市街方面からだと,汐合橋手前堤防右ですね)
するとJRとの踏み切りがあります
地図でいえば…
↑ここですね
そこの踏み切り,ちょっと手前道路左脇に
花崗岩でできた『止まれ』の標識があります
かなり古そう…
参宮線は全国的にも早い明治44年代に開通
その頃からの標識かしら…?
近づいてみると,『止まれ』ではなく『止レ』
むむむ〜,趣がありますな
写真を撮っていると
おじいさんが話しかけてくれました
そしてこんな話を聞かせてくれました
かいつまんで書いておきますと…
昭和8年だったか(11年だとすぐこの後に分かる)
内宮参拝を終えた母娘がこの場所で列車にはねられ
五十鈴川鉄橋まで引きずられ死んだ
これはその供養碑なんだ,裏側を見てみ,と…
おじいさん,実際に当時事故を見たらしいのです
確かに気がつかなかったけど
裏面には文字が彫ってあるんですわ
少し読みにくいけど,こう彫ってありました
とっても悲しい話だったんです
二度とこの場所で事故が起きないようにと
供養碑を兼ねた標識がこのレトロな標識だったんです…
内宮の帰りこの道を通って…,ってことは…
母娘は二見の宿へ行く途中だったのかもしれません…
…合掌
---------------------------------------------------------------------
「こ〜いうのを写真に撮って回ってござるんかいな?
なかなかええ趣味もってござるな」
とおじいさん
いえいえ,ただ遊んでいるだけです…
堤防すぐに左へ入ると鹿海へ抜けます
(伊勢市街方面からだと,汐合橋手前堤防右ですね)
するとJRとの踏み切りがあります
地図でいえば…
↑ここですね
そこの踏み切り,ちょっと手前道路左脇に
花崗岩でできた『止まれ』の標識があります
かなり古そう…
参宮線は全国的にも早い明治44年代に開通
その頃からの標識かしら…?
近づいてみると,『止まれ』ではなく『止レ』
むむむ〜,趣がありますな
写真を撮っていると
おじいさんが話しかけてくれました
そしてこんな話を聞かせてくれました
かいつまんで書いておきますと…
昭和8年だったか(11年だとすぐこの後に分かる)
内宮参拝を終えた母娘がこの場所で列車にはねられ
五十鈴川鉄橋まで引きずられ死んだ
これはその供養碑なんだ,裏側を見てみ,と…
おじいさん,実際に当時事故を見たらしいのです
確かに気がつかなかったけど
裏面には文字が彫ってあるんですわ
少し読みにくいけど,こう彫ってありました
横濱市神奈川區松本町二番地
昭和十一年四月一日遭難 母 伊藤いち子
三女 伊藤久子
とっても悲しい話だったんです
二度とこの場所で事故が起きないようにと
供養碑を兼ねた標識がこのレトロな標識だったんです…
内宮の帰りこの道を通って…,ってことは…
母娘は二見の宿へ行く途中だったのかもしれません…
…合掌
---------------------------------------------------------------------
「こ〜いうのを写真に撮って回ってござるんかいな?
なかなかええ趣味もってござるな」
とおじいさん
いえいえ,ただ遊んでいるだけです…
2007年01月11日
江戸期の伊勢参宮…その2
さてさて,長旅を終え伊勢に着いた参宮客
お泊りはそれぞれの御師の館へ…
御師…
いまで言うツアーコンダクター
といえるでしょうか
これだけで一つのネタになるので…
…次回ネタにとっておきましょうか(^ ^)
長旅を終え,初めて迎える伊勢での夜は
そりゃもう豪華な食事でもてなされてそうです
例の『西垣晴次著:お伊勢まいり/岩波新書』より
またまた抜粋いたしまする
記録に残っているのは
善九太夫という御師のところの料理です
時は宝暦二年(1752年)
さてその中身ですが…
なんだか知らんけど
めっちゃ豪華な食事ですね
これらを夜半までかかって食したそうです
もちろん酒も入るし
さぞかし賑やかな場だったに違いありません
(これだけの料理,いっぺん食ってみたいなぁ…)
(いや食い切れるかな…)
さらに,この記録の中には
という記録者の思いも書かれているそうです
正月の伊勢神宮参拝で賑わう伊勢の街
その現在にまで至る賑わいの裏には
先人達のおもてなし,振る舞いの心意気があった…
ということでしょうか
お泊りはそれぞれの御師の館へ…
御師…
いまで言うツアーコンダクター
といえるでしょうか
これだけで一つのネタになるので…
…次回ネタにとっておきましょうか(^ ^)
長旅を終え,初めて迎える伊勢での夜は
そりゃもう豪華な食事でもてなされてそうです
例の『西垣晴次著:お伊勢まいり/岩波新書』より
またまた抜粋いたしまする
記録に残っているのは
善九太夫という御師のところの料理です
時は宝暦二年(1752年)
さてその中身ですが…
一の膳
金柑・大根・さより・きくらげ・ボウフウ(セリ科の植物)・栗のなます,タコとゼンマイ銀杏の煮物,赤貝・煮染の割物,豆腐・フキ・青味の汁,鴨の羽盛に鮭
二の膳
海老の舟盛,亀足,カマボコ,焼杉として山の芋・椎茸・うど,二の汁はアイナメ,大猪口は青あえ・うど・いか・それに塩山椒
三の膳
梅干,貝焼,あわび,刺身はいり酒酢と鯉,香の物は奈良漬と大根,春箏はたけのこ・花芋・うど・レンコン,水の物は伊勢海苔・カキ・トサカ・カブロボネ,お重は梅麩,すし鯛はこけらとたで,酒吸物は白魚と海苔,吸物は鯛と山椒の芽,なし物(塩辛)は味味噌とトコブシ,三の汁は昆布と恵比寿鯛,それに大鉢にうどで牡丹を形どったものなどが飾られる。
最後はうどんと豆腐の吸物がでる。
なかにはよくわからぬものもあるが,たいへん豪華な料理だったことは確かであり…
なんだか知らんけど
めっちゃ豪華な食事ですね
これらを夜半までかかって食したそうです
もちろん酒も入るし
さぞかし賑やかな場だったに違いありません
(これだけの料理,いっぺん食ってみたいなぁ…)
(いや食い切れるかな…)
さらに,この記録の中には
「伊勢はことのほか賑やかで,幾度も参宮したい気持ちがおこり恋しくなる」
という記録者の思いも書かれているそうです
正月の伊勢神宮参拝で賑わう伊勢の街
その現在にまで至る賑わいの裏には
先人達のおもてなし,振る舞いの心意気があった…
ということでしょうか
2007年01月06日
江戸期の伊勢参宮…その1
お正月です
初詣で賑わう伊勢神宮
付近は渋滞で,もう大変,大変…
いえいえ,そういう渋滞の話ではなくってぇ…
現在でも全国からの参拝客で賑わう伊勢神宮
さて,車はもとより電車などの公共交通機関がなかった
江戸時代の伊勢詣はどんな感じだったのでしょうか?
もちろん,伊勢までの全行程の基本は歩き
(武家以外が馬に乗ることは『基本的』に禁止だったとか…)
どれくらいの日数で伊勢を目指したのでしょうか?
手元の本にその辺りについて
少し触れている本がありますので
抜き書きします
(以下は,『西垣晴次著:お伊勢まいり/岩波新書』より抜粋)
---------------------------------------------------------------------
時は嘉永六年(1853年)正月六日
現在の千葉県流山市から伊勢参宮を目指す
五人組御一行の記録があります
ちなみにこの嘉永六年という年
同年6月に浦賀にペリーが来航し
幕末の内外情勢がめまぐるしく変わる,そんな時代のお話です。
さて,6日に流山を出発した一行は
船で江戸川を下ります
そして金町(東京都葛飾区)に上陸し
午後四時過ぎ金町となりの新宿(にいじゅく)で昼食です
現在で言えば,この辺ですね
その後,日本橋・馬喰町へ向かいます
ここで待ち合わせの伊勢講一行と合流,計43名の大所帯
現在で言えばバスツアーくらいの人数ですね
この日はそのまま集合場所にあてがわれた
日本橋,辻屋平兵衛宅泊
一行用の箱根の関所通行手形も準備され
事実上の伊勢参宮の始まりです
7日,馬喰町を出発した一行は,品川宿で昼食
川崎大師に参詣して川崎宿泊
8日,藤沢宿(神奈川県藤沢市)泊
9日,小雨が降る中,箱根宿の福住屋九蔵方泊
10日,箱根権現に詣で,関所を通過。三島宿(静岡県三島市)泊
11日,大雨の中,三島を出発,吉原宿(静岡県富士市)泊
12日,富士川を渡り,由比宿(静岡県由比町)泊
13日,清見寺,久能山に立ち寄り
駿府伝馬町(静岡市葵区伝馬町)万屋清三郎方泊。
14日,天気が回復。仙元大菩薩(浅間社)へ詣で
安倍川,大井川を無事渡り,金谷宿(静岡県島田市)泊。
---------------------------------------------------------------------
この間,14日から20日までは手持ちの参考本に載っていませんです
ただ,その間に参詣した寺社は
16日秋葉山,18日鳳来寺,豊川稲荷だったと記されています
---------------------------------------------------------------------
20日,津島(愛知県津島市)泊
21日佐屋(愛西市;弥富近く)から桑名まで船で海上を渡る
22日,白子泊
23日,松阪泊
24日,宮川を渡り,山田へ入る
…正味18日の行程ですね
これだけの苦労をしてやってきた伊勢神宮
今の私たちが想像する以上に
伊勢へ来られた感慨もひとしおだったと想像できます
う〜ん,昔の人はえらいなぁ
初詣で賑わう伊勢神宮
付近は渋滞で,もう大変,大変…
いえいえ,そういう渋滞の話ではなくってぇ…
現在でも全国からの参拝客で賑わう伊勢神宮
さて,車はもとより電車などの公共交通機関がなかった
江戸時代の伊勢詣はどんな感じだったのでしょうか?
もちろん,伊勢までの全行程の基本は歩き
(武家以外が馬に乗ることは『基本的』に禁止だったとか…)
どれくらいの日数で伊勢を目指したのでしょうか?
手元の本にその辺りについて
少し触れている本がありますので
抜き書きします
(以下は,『西垣晴次著:お伊勢まいり/岩波新書』より抜粋)
---------------------------------------------------------------------
時は嘉永六年(1853年)正月六日
現在の千葉県流山市から伊勢参宮を目指す
五人組御一行の記録があります
ちなみにこの嘉永六年という年
同年6月に浦賀にペリーが来航し
幕末の内外情勢がめまぐるしく変わる,そんな時代のお話です。
さて,6日に流山を出発した一行は
船で江戸川を下ります
そして金町(東京都葛飾区)に上陸し
午後四時過ぎ金町となりの新宿(にいじゅく)で昼食です
現在で言えば,この辺ですね
その後,日本橋・馬喰町へ向かいます
ここで待ち合わせの伊勢講一行と合流,計43名の大所帯
現在で言えばバスツアーくらいの人数ですね
この日はそのまま集合場所にあてがわれた
日本橋,辻屋平兵衛宅泊
一行用の箱根の関所通行手形も準備され
事実上の伊勢参宮の始まりです
7日,馬喰町を出発した一行は,品川宿で昼食
川崎大師に参詣して川崎宿泊
8日,藤沢宿(神奈川県藤沢市)泊
9日,小雨が降る中,箱根宿の福住屋九蔵方泊
10日,箱根権現に詣で,関所を通過。三島宿(静岡県三島市)泊
11日,大雨の中,三島を出発,吉原宿(静岡県富士市)泊
12日,富士川を渡り,由比宿(静岡県由比町)泊
13日,清見寺,久能山に立ち寄り
駿府伝馬町(静岡市葵区伝馬町)万屋清三郎方泊。
14日,天気が回復。仙元大菩薩(浅間社)へ詣で
安倍川,大井川を無事渡り,金谷宿(静岡県島田市)泊。
---------------------------------------------------------------------
この間,14日から20日までは手持ちの参考本に載っていませんです
ただ,その間に参詣した寺社は
16日秋葉山,18日鳳来寺,豊川稲荷だったと記されています
---------------------------------------------------------------------
20日,津島(愛知県津島市)泊
21日佐屋(愛西市;弥富近く)から桑名まで船で海上を渡る
22日,白子泊
23日,松阪泊
24日,宮川を渡り,山田へ入る
…正味18日の行程ですね
これだけの苦労をしてやってきた伊勢神宮
今の私たちが想像する以上に
伊勢へ来られた感慨もひとしおだったと想像できます
う〜ん,昔の人はえらいなぁ